鳩子の詩集 トランスジェンダー詩集について



詩 集
by鳩子

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トランスジェンダー詩集について

2003/7/29(火) 詩について

 鳩子のHPでは、メニューの上位に「詩集」があります。あまり長いものを書く能力もなく、短い文に写真を添えれば見ばえもよくなるので、そうしています。
 詩といっても、感じたり想像したりしたことを、素直に書くだけです。ただしあまりに普通の女性の詩にしか見えないものは、ちょっと面白みに欠けるかもしれないので、取捨選択はします。
 ほかの人のサイトでいくつかの詩を見たことがあるのですが、女性としての存在を認めてくれない社会への漠然とした批判メッセージがテーマのものが多く、やや暗い印象をうけました。もっと、自分のしてきた努力の過程での小さな悩みや喜びを、一つ一つ確認しながら、具体的な人……過去の知人とか、そういう人を少し美化したり脚色したりした架空の人でもいいですから、個性をもった相手へのメッセージのように書けばいいんじゃないかって思います。

傷つくことと失うこと 2005/02/17

 「けっきょく過ぎ去ってゆくものへの歎きや悲しみをやわらげるために、詩を書いているように思います。」と、某掲示板に書いたのは昨年暮れでした。
 過ぎ去ってゆくもの。失ってしまったもの。生きることは失うことの連続なのかもしれません。
 今ふうの言葉で言うと「傷つきながら」?、でも「傷つく」という言葉だけではあまり良い表現にはならないのです。「二人はいつも傷つけあって暮らした……」昔の青春の歌謡曲の詞ですが、傷つくということは、傷つけることでもあり……つまり相手を傷つけるわけです。そこに見えるのは息が詰まるような狭い空間で二人だけで向き合っているような関係。生きることは、遠ざかってゆくことの連続でもあるのかもしれません。「傷つけあう」という言葉は、誰かが1回使ったらあとはインパクトはありません。
 失ってしまったものや遠くへ行ってしまったものは、子どものときからたくさん感じてきました。そういうときは一人で泣きました。最近の大人はたぶん、泣いている子どもは可哀想だと思って余計な介入をしすぎるのでしょう。
 自分が傷ついたという認識だけでは、たくさん書いても似たような詩しかかけないのは当然です。でも失ったもののことを書くのなら、本当にいろいろなものを書けるような気がします。
 人間はやっぱり失うために生きています。もしそうでないなら、人生の最後の時を迎えたとき、一度に失うものがあまりに多すぎて、正常な心をたもつことはできないでしょう。だれもがいつかそういう瞬間に出会うとしたら、人が失うものの中で、いちばんのものは、自分自身だということになります。
 失うことをマイナスに考える必要もありません。私の中から離れて行ったものを恋人が受けとめたとします。そのときの恋人の様子を書くことは、私から離れて行ったものを書くことなのです。
 私の髪のなかには、自然に抜け落ちて私から離れて行ってしまうものがあります。小鳥が見つけて、巣を作る材料にするかもしれませんし、水に流されて長い旅をするかもしれません。

鳩子の詩 2005/02/20

昨年9月4日のDiaryに似顔絵のことを書きました。写真なら「どこからどう見ても女の子だ」って、じっくり見てくれる人が多くても、似顔絵に描かれるとただの女の子の絵なので、あまり関心をもって見られなくなるというお話。
鳩子の詩集も、女の子になりきって書いてる詩はあえて載せてないのです。しょせん素人の書くものですから、そういうのでないものを載せたほうが独自の味わいを出せると思ったのです。でも今後は未定です。
女性の視線から自分の中の男性部分を見たり、少年の日を振り返ったり、それから今の視線から過去の自分を二重化して見たりで、二人の自分が出てくることが多いです。