『図説日本の歴史2神話の世界』(集英社、昭和49年発行)という本があります。全18巻からなる「日本の歴史」の1冊で約30年前のものとなると、今は見向きもされないかもしれませんが、この『神話の世界』は三品彰英という先生が一人で執筆された本です。三品氏は日本の神話や朝鮮文化を研究された人で、平凡社から全集も出版されています。

 この『神話の世界』から、ヤマトタケル女装(じよそう)についての三品氏の見解の部分を紹介します。
「ヤマトタケルの活躍の蔭には常に女性がいる。ヤマトヒメ・ミヤズヒメ・弟橘姫などの。中でもヤマトヒメはヤマトタケルと一対の名になっており、ヤマトの天皇や皇子の政治・軍事に際して、神意を伝えることがヤマトヒメの役目であった。
 ヤマトタケルはクマソを討ちとる時に女装(じよそう)するが、それはクマソたちをあざむくための単なる変装ではない。その女装(じよそう)というのは普通の女性の衣服ではなくて、巫女(ふじょ)ヤマトヒメの御衣(みそ)・御裳(みも)である。この巫女の衣服を身にまとった小碓命(ヤマトタケル)は、ちょうどシベリアの男子シャーマンが巫儀を行なう際に女装(じよそう)するように、女装(じよそう)による司霊者的な呪力を身につけてクマソの酒宴の場に臨んだのである。巫衣と司霊者(シャーマン)の機能は、実は不可分なものである。」
 女装(じよそう)とは巫女になることだというのです。女性にそなわった最もすばらしいちからは巫女的な、超自然的なちからで、どうしてもそれが必要なときがあって、それである特別な人は女装(じよそう)をしたわけなのでしょう。
「今ひとつ、少年戦士が女装(じよそう)する例をあげておこう。六世紀頃の新羅(朝鮮南部)では「花郎(かろう)の徒」と呼ばれる青年戦士団があった。彼らは貴族の十四、五歳の少年を美しく化粧し、女装(じよそう)をさせて「花郎」と呼び、戦士団の中心として奉戴していた。青年たちはこうした集団生活のうちに戦友的友情を深め、平時には社会奉仕にはげみ、また聖地を巡拝し、祭礼の時には歌舞を行なった。そして戦争になると、「花郎」を先頭に立てて先陣を争って勇敢に戦ったのである。新羅が朝鮮半島全域を統一する戦争の歴史のうちには、幾人もの有名な花郎の伝記が伝えられている。この花郎なるものは最初は女性であったが、後に少年に変わったと伝えている。その性能からいうと、彼は司霊者あるいは神霊のよりまし(神の使者、あるいは憑依者)である。」
 こう述べる三品氏は、ヤマトタケルと新羅の花郎の女装(じよそう)は、東アジアに共通する習俗であり、だからヤマトタケルの女装(じよそう)も個人の一時的なものではないと言いたいようです。集団としての伝統的な習俗であって、この「青年戦士団」とは「男子集会」とも呼ばれ、かつては世界各地に存在したという報告もあるようです。
 そんな時代の男の子たちは、12〜13歳で影響力の強い母のもとから引き離され、男子集会の宿舎の中で共同生活をし、結婚年齢になれば、集会から妻のもとへ通い、子ができれば12〜13歳になるまで妻の家に預けるという生活らしいのです。今の家庭中心の生活からは、なかなか想像しがたいものがあります。
 けれども男子集会は、村の軍事や政治をとりしきりますから、古代の村落社会にあっては社会性のある唯一の集団だったともいえます。村が小国家となり、さらに大きな国家へ統一され、そうして新羅国王には花郎出身者が多かったといいます。現在よく言われる「男性中心の社会」の起源もここにあるようなのです。「社会」の範囲が狭かったころは、男子中心の政治集団と、女子中心の一族集団とは、ほぼ対等の関係にあったのかもしれません。
 男子集会での歌舞などについては、歌舞伎の起源のようなものも感じられます。また、この集会の中では男色も行なわれました。男色の起源は、僧侶などの特殊な男子だけの組織にあるのというではなく、社会組織は本来男子組織しかなかったことにあるようなのです。
 「この花郎なるものは最初は女性であったが、後に少年に変わったと伝えている。」という部分については、14世紀ごろの朝鮮の史書(三国遺事、三国史記)によるもので、もとは何人かの女性の役割だったけれど、互いの嫉妬心からスキャンダル事件がおこったために少年に変わったと書かれます。けれど、古い史書などの「ものの起源」についての話は、神話的で寓話的なものが多いのです。どの国の神話でも国王の先祖は神だったと書かれますが、こういう記述が血縁関係として正しいことかどうかは重要なことではありません。だから花郎がもとは女性であったという記述も疑っていいわけです。
 (追記 仮りに花郎が女性であったなら、集団内で嫉妬による諍いを起こすのは、小数の女性たちではなく、圧倒的多数の男性たちであるはずです。それでは男子集会の組織がもちません。あるいは古代のギリシャやオリエント地方のように、神格化された女性を護衛するために去勢された男子による親衛隊を組織する必要も生じます。日本では去勢は行われませんでした。新羅国もたぶんそれに近いのだろうと想像しています)
 以上は昔読んだ三品彰英『新羅花郎の研究』(平凡社)の記憶を参考に書きました。
「このような新羅の花郎の習俗は、隣国の、しかも古い時代の話であるが、これとよく似た習俗が近代まで、わが国にも残存していた。それは旧薩摩藩の「兵児二才(へこにせ)」という青年団組織である。兵児二才とは士族の若者の集会で、薄化粧した少年を「稚児様」と呼び、それを中心に青年たちが毎夕集会して学習や武技を練り、またいろいろの年中行事を行なった。この兵児二才は西南戦争頃まで存続していたが、その後は新しい青年団に改められた。かつて頼山陽が、それを「健児之社」としてたたえ、またイギリスでポーイ・スカウトが創設されたときにも、兵児二才制度が参考にされたともいわれている。」
 「稚児様は…… 郷中の名門の嫡男で12〜13歳の特に美貌の少年2名を選んで美服を着せ薄化粧させ、この稚児様を集会の中心として尊敬し、それに奉仕することをもって各種行事の中心とした。」
 福島県会津若松の(県立)博物館で、白虎隊の出陣装束を着せた少年の実物大人形を見たことがあります。それはとてもカラフルで美しいものでした。実用だけを考えればあんな派手でなくていいはずです。不利な戦況のために兵員が足りなくて少年までが動員されたというのではないんだと思います。何か古代の名残りを伝えたものがあって、美少年たちはもともと軍のシンボルとしての存在でしたので、軍が敗れれば美しい装束のまま自決しか道はなかったのでしょう。
 会津を破った薩摩の兵児二才制度もまもなく近代化され、かつて神を招き寄せた美少年たちは、粗野な軍人どものの中に混じって、本来の目的を喪失する時代になってしまうわけです。
 (2003.5.22)

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