日本史の人物の"女装(じよそう)"に関するエピソード

彫刻  このコーナーは日本史に登場する有名人たちのいわゆる"女装"のエピソードの紹介です。各WEBサイトや、「青空文庫」、「新潮文庫」等のCD-ROMから検索して調べたものです。もっと楽しいものになるかと思いましたが、ゴシップ程度の断片的なものが多くなりました。単なる伝説にすぎないものもあるでしょう。時代の経過とともに、当時の女装の本来の意味を、後世の見方で合理化しないと語り手も聞き手も納得できなくなってゆく場合もあります。

 登場人物が女装をする場面のある小説などを多数収集している人の話も聞きます。近年のものはかなり膨大な量になるので、いわば女装自体を目的にした女装に限る、つまり探偵などが仕事のためにする女装やイベントなどでの女装は除外するという方針を立てる場合もあるようです。
 しかし小説や物語は、ドキュメンタリーやリアリズムの描写に限るものではありません。むしろ空想や幻想の世界を描こうとするのが、物語の本来の姿です。幻想的な描写の方法の一つとして、歴史の舞台を選んだり、個人の性癖を本人に直接語らせるのではなく物語全体の中で美的に描いたり、集団的な意識の象徴の形に再構成していったりすることがありえます。

 歴史物語もそのような美意識などを語ることもあるはずなのですが、なかなかそのようなものとして再構成したものにはお目にかかれません。とりあえずは、以下のようなエピソードの羅列でお茶を濁すしかないのが現状です。

平安時代以前

◇アマテラスオホミカミ。スサノヲノミコト  → 日本の両性具有神

ヤマトタケルと新羅花郎

女装の被葬者?

女体に近い聖徳太子像

◇紀貫之の「土佐日記」


平安時代末期

◇渡辺綱、茨木童子
◇二条天皇、後白河法皇、高倉宮以仁王、平敦盛

◆木曽義高

 平氏を討つために源氏が立ち上がったころの寿永二年(1183)、源頼朝と木曽義仲の仲が悪くなり、義仲は嫡子の義高を人質のようにして鎌倉へ預けることになりました。義高は当時11歳、頼朝の長女の大姫(6歳)と幼い夫婦となったのです。
 その年、義仲は京都に攻め入って輝かしい戦果をおさめ、平家は都落ちとなりました。新しい時代の到来かと思われましたが、義仲は翌年1月に頼朝が差し向けた義経らの軍に敗れて近江国で戦死してしまいます。頼朝は、義仲の遺児の義高から成長後に復讐されることを恐れ、義高も殺そうと計画しました。これを知った大姫は、義高に女装をさせて鎌倉から逃がしました。大姫の母・北条政子が幼い二人の愛を憐れんで手引きしたといいます。しかしすぐに頼朝に察知され、義高は武蔵国入間河原(埼玉県狭山市〜嵐山町付近?)で討ち死にとなりました。(『吾妻鏡』によれば元暦元年(1184)4月21日のことでした。

◆源義経

  『義経記』での牛若の服装

鎌倉時代

◆五郎丸

 源頼朝が征夷大将軍となった翌年の建久4年(1193)5月、東国の武士たちが富士の裾野に集まって巻狩(まきがり)という行事がありました。その夜に曽我兄弟によって工藤祐経が殺害されました。これが有名な曽我兄弟の仇討ちです。仇討ちを果たした後、兄の曽我十郎はただちに殺害され、弟の五郎は事情を将軍頼朝に訴えようとして出て行ったところを捕らえられ、翌日に処刑されました。五郎を捕えたのが五郎丸という武士で、女装だったともいいます。

◆源頼朝

 源頼朝の死因についてはいくつかの説があります。女装で小周防(こすおう)という女のもとに忍んで行ったところを、警備の武士(安達盛長)に誤まって斬られたという説もあります。

◆比企余一兵衛

 頼朝の死後、子の頼家が二代将軍となりましたが、有力武士の北条氏と比企(ひき)氏が対立し、建仁3年(1203)、比企氏の乱が起こりました。この戦いで、比企能員(よしかず)の子の余一兵衛は、女装となって逃れようとしたところを、加藤景廉に討たれたといいます。この乱ののち、頼家の弟の実朝が三代将軍となりました。

◆公暁

 実朝は和歌にも秀でた将軍でしたが、1219年に頼家の子の公暁(くぎょう)に暗殺されてしまいます。公暁は、女装で鎌倉の八幡宮境内の石段のわきの大銀杏の陰から実朝に襲いかかったともいいます。(または法師の姿だったという説もあります)

 ◆伏見天皇

南北朝・室町時代

◇後醍醐天皇 

◆春王、安王

 室町時代は、鎌倉に関東公方が置かれて東国の政治が任されていました。初代将軍の足利高氏から分家して4代目の足利持氏が関東公方のころは、関東勢と幕府との対立も多くなり、内乱にまで発展したのが「永享の乱(1438〜9)」です。
 しかし幕府側の今川・武田らの守護大名が関東に侵入し、永享10年(1438)10月には関東で勢力を拡大してきた上杉憲実が府中分倍河原から鎌倉に攻め入りると、形勢不利をさとった持氏は、子の春王(11才)と安王(9才)を、下野国日光山へ逃れさせました。翌年2月、持氏(42歳)は敗れ、嫡子義久(14歳)とともに永安寺で自害となりました。
 しかしその後も関東の混乱は沈静化することもなく、明くる永享12年3月には、上杉氏に反発する結城氏朝などの関東の武士たちは、春王と安王を奉じて反乱を起こし、結城城(現茨城県結城市)に立てこもって抵抗を続けました。けれど翌年、嘉吉元年(1441)4月16日、結城城の落城寸前に、結城氏朝は、春王と安王を女装させて脱出させようとしましたが、幕府軍に見破られて捕まってしまい、氏朝も切腹して反乱軍は鎮圧されました。この戦いを「結城合戦」といいます。
 春王と安王は京都に護送され、5月に美濃国の垂井で斬殺され短い生涯を閉じました。
  謡曲「桜川」と春王・安王

◆後花園天皇

 南北朝時代も終結して50年ほど後のこと、1443年の9月23日の夜、南朝の遺臣、前権大納言・日野有光と、後亀山天皇の曾孫・尊秀王が内裏に侵入して放火し、神璽と宝剣(天皇のしるしの三種の神器)を奪って延暦寺に逃げ込みました。後花園天皇は女官の機転で女装されて脱出しました。反乱軍に味方する者は少なく、3日後に幕府軍に鎮圧され、神璽と宝剣も取り戻されました。(南朝遣裔の乱)
 その後は次第に戦乱の時代となり、応仁の乱(1467〜)へとすすみます。

戦国・安土桃山時代

◆織田信長

滋賀県近江八幡市 日牟礼八幡宮の「左義長まつり」(毎年三月中旬)は、町の若衆が女装で山車をかつぐ祭です。安土桃山時代に安土城下で行われていた行事が源流といわれ、城主の織田信長が自ら女装で踊った話が伝えられています。「左義長」は地方によっては「とんど焼き」ともいい、一種の火祭で、小正月のころの行事とする地方のほうが多いようです。
 司馬遼太郎『国盗り物語』には次のように書かれます(尾張国での話)。
「若いころ、堀田某の屋敷のまわりで領内津島村の盆踊りがあった。信長は女装して出掛けてゆき、踊りの群れのなかにまじってあざやかに踊ってみせ、みずから小鼓もうった。津島村の領民は大いによろこび、あとで踊り子の列を連ねて城下までゆき、お礼踊りをしてみせた。」

◆木下闇

「お万阿は、――いやお万阿の衣裳をかぶっている木下闇は、剣をふりあげたまま、ぶるぶる慄えはじめた。・・・「死ねっ」と叫ぶや、大剣は天空に弧をえがき、目の前の女装の敵を、脳天から尻の穴まで真二つに斬り割るほどに斬りおろした。どさっ、と血みどろの肉塊がころがった。お万阿の顔が、縦に割れている。面に、すぎない。庄九郎は面を剥ぎ、なまの顔をみた。薄あばたのある平凡な三十男の顔があらわれた。(これが、木下闇か)」(司馬遼太郎『国盗り物語』)

◆井筒女之介

 戦国時代、山陰の出雲地方の大名の尼子氏には、「尼子十勇士」と呼ばれた武勇を誇る武将たちがいました。十人のうちのリーダー格は山中鹿之介で、彼の兜には大きな三日月のマークが付いていました。また十勇士の一人、井筒女之介は、江戸初期の『武者物語』によると、女装の豪傑だったそうです。
 尼子氏は、最盛期には長州を除く山陰山陽地方を全て支配下に置いていましたが、長州の毛利氏が勢力を拡大し、永禄9年(1566)にはついに毛利氏に攻められて、月山富田城(島根県広瀬町)は落城しました。その後も尼子十勇士たちはお家再興のために戦いましたが、その夢がかなうことはありませんでした。

姫若子・長曾我部元親

戦国のスパイ、二形(ふたなり)丹波

武田信玄が送った間者の二形丹波。

変生女子について(室町〜江戸時代)

難を転じる「変身」の場所

女装で河童をつかまえた話。

江戸時代

百姓一揆と美少年

幕末のアンドロギュノス

鼠小僧の薄化粧


明治時代以後

◇明治天皇 出口王仁三郎 山本五十六

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