稚児之草子の読み方について

(2012.9.18)
 当サイトのコンテンツである稚児之草子(翻刻)について、稲垣足穂版と違う部分がありましたので、誤解のないように、読み方としては、当サイトのほうが堅実な読み方であることを説明いたします。
 当サイトのテキストは、当初、別冊太陽のあまり大きくはない印刷画像を可能な限り高解像度でスキャナしたものを読んだものです。その後、足穂版男色大鑑の付録の複製巻物を見る機会があったので、若干の修正を行ないました。最近、『稲垣足穂大全3』に収録された活字のテキストと比較してみましたので、いくつかの目立つ違いについて、ここで説明することにしました。画像は複製巻物からのものです。
 おそらく足穂版では、戦後まもないころの写真画像を読むなどして一部の撮影不鮮明な部分に想像を補ったものではないかと想像しています。(※2018補足 そうではなく、大正14年の『江戸軟派雑考』の翻刻の、本文でなく脇の書込などの影響が大きいといえます。)

(二段2「てのきはして」の項を追加、2016.9.17)

(五段「ばさら」について補足、2017.2.8)


てのきはして
第二段
★草ごみにててのごはして各帰にけり
●草ごみにててのきはして各帰にけり
「手の際」は広辞苑で「手の及ぶだけ。力のありったけ」と訳語がありますが、ここでは「最後まで」としました。交じわりの最後までの意味です。
広辞苑の用例「城内の兵ども、手の際たたかひ打死するものおほかりけり(平家六)」も「最後までたたかひ」と言い換えて通りますし、「最後まで」という時間的表現のほうが日本的です。どちらも「果てるまで」という意味です。
「手拭はして」とは読めません。草で手を拭えば、あとで人に気づかれます。「夜な夜な毎の事なれども知る人もなし」と本文にありますので。

2016年9月に初めて「てのきは」を辞書で引いて見ました。すると、まさにこの場面にふさわしい意味が載っていました。何げなさそうな言葉でも、辞書の参照を怠るべきでないと痛感しました。当初は「手の際=小指」と解釈して、小指を重ねての「再会の約束」というロマンチックな意味を想像していました。

志あるとくゐにて
第二段 結末
★斯様に情け深きことは少くなこそ、出家の後まで志あるたぐゐにてある由
●か様になさけふかきことはすくなすくなこそ、出家の後まで志あるとくゐ(得意)にてあるよし

「たぐゐ」か「とくゐ」かですが、画像のようにとても「た」とは読めません。「得意」は辞書によれば「親しい友」のことで、現代語の「お得意さん」に通ずるものでしょう。文字の通り「とくゐ」としたほうが、意味も、稚児が出家して一人前の僧になった後も親しい友であり続けた、となり、すっきりします。一つの物語の結語としては、とても心に残る抒情的な表現です。でなければ文学的な価値が下がります。
「得意」や別項の「けいき」「けしき」という言葉は、『岩つつじ』でも使われています。


けいきばかりを

心たてだてし
第四段 法師が告白することを躊躇している場面
★口より外へは出ださねども、けしきばかりを知らせてけり。この童、さしも心たけだけしけれども
●くちよりほかへはいださねども、けいきばかりを知らせてけり。この童、さしも心たてたてしけれども

これも画像の通り、「けいき」「たてだてし」としか読めません。
「景気」とは「気色(けしき)」と似たような意味の言葉で、気配といったような意味。法師は、言葉に出せずに、思わせぶりな景気(気配)ばかりを伝えてくるので、童は「たてだてし」と感じます。「たてたてし」は腹立たしいといった意味との説明がありますが、ここでは思わせぶりな態度がじれったい、イライラする、不満だというニュアンスでしょう。「たけだけし・猛猛し」では、会話の意味もわからなくなり、童にふさわしくもありません。


あらしらじらしや
さもしや

御はさらかな
第五段 絵の詞。明るい燭台の下での交じわりの場面
僧が「生まれてこのかた、見てしたる事はいまだ候はず。よきくせと覚え候」、つまり、 生れてから見ながら(性交を)したことは未だなかったので、良いアクセントになると言います。「くせ」は生活上のアクセントのような意味でしょうが、「一生の思い出」に感じたということだと思います。

★(童)あらしらじらや、さわがしや、如何なる御事候ぞ (僧)あはれ、おん形のよさかな
●(童)あらしらじらしや、さもしや、いかなる御事ぞ (僧)あはれ、御はさらかな

童の言葉からですが、「しらじらや」では「し」が抜けています。「さわがしや」と読むのも無理です。
交じわりながら、僧が明るい燭台をかざして童のからだを見ている場面です。
童が、「しらじらしや」(明るいではないか)「さもしや」(下品ではないか)「いかなる御事ぞ」と言って、見られるのを嫌がります。
それに対して僧は、「あはれ」、これはアッパレの意味で、素晴らしく感動している様子。そして「御ばさらかな」……婆娑羅(ばさら)という言葉が出てきます……、

婆娑羅、つまり「通常ではない風変りで刺激的なやりかた」(補足を参照)が素晴らしいと言うのですが、ややとぼけた返答ではあります。
男性が視覚的な刺激で興奮し、その若い恋人が明るい所で見られるのを恥かしがるという情景です。こういうのは、いつの時代も同じなのでしょう。女性的な感情への留意が欠けるために誤読が多い、というのは、こういう文献の世界では、ときどき見かけることです。(2012年9〜12月)

【補足】 婆娑羅とは、「婆娑」(舞う人の袖が美しくひるがえるさま。琴などの曲調に変化が多いさま。その他の意味)から来た言葉との解釈が出されています(「婆娑羅(バサラ)についての再考」を参照)。
僧の動きがリズム主体であるのに対し、稚児の動きは美しく抑揚のあるメロディーのような、ときにアクセントをともなうような動きであることに感動して、それを「ばさら」と表現したといえます。
華やかにうねうねと(くねくねと)舞うような動き、といいますか、稚児の姿が、天女の美しく舞うような御姿であることを「御婆娑羅かな」と表現したのだと思います。
足穂版の「おん形のよさかな」は、意味としてはそれほど遠くないことになります。 (2017年2月補足)


さて、他に福田和彦氏の本も見ましたが、「築地に忍冬」以外は参考になりませんでした。数十か所にわたって文字を勝手に増やしたり減らしたりしているのには、唖然とするばかりです。


まことゝから

そはゑ
はかばかしく

ひはかくひの辺

みなひとの
はかしたを
やきたるぞや
読みにくい文字

一段「みなひとのハかしたを」
 「ハか」に見えるのは1文字かも??

四段「ひはかくひの辺」

五段「そははかばかしく

「まとゝから」
 「まゝとゝ」と読めなくもないか?

『江戸軟派雑考』による読み方

2018.10.8
国会図書館サイトで、尾崎久弥 著『江戸軟派雑考』(1925)という本が公開されていました。この本には、稚児之草紙の翻刻文が載っているので、いくつか、確認してみました。
当サイト 江戸軟派雑考
二段 てのきはして てのきはして(手拭はしてヵ)
二段 とくゐにて  とくゐにて(たぐゐヵ)
四段 けいきばかりを けい(しヵ)きばかりを
心たてだてし 心たて(けヵ)だてし
五段 しらじらしや、 しらじらしや
さもしや ▲さわがしや
御はさらかな ▲御□よさしかな(一字欠)
最後の2つ以外はちゃんと読めています。しかし「とくゐ」の脇に「たぐゐヵ」などと書き加え、混乱しているのは、「得意」などの古典語の無理解が原因でしょうね。脇の書込みのほうを、足穂本は多く採用しているということになります。これは、原本が誤字(誤写)だらけだと主張しているのと同じになりますが、古典語を理解しない人の主張でもあります。
「さもしや」は、明るくしないでという意味がわからない男性なので読めなかった。
「はさら」を「よさし」と読んだのは、無理の度合いは少ないかもしれませんが、無理であることには違いありません。「一字欠」は、画像を見た限りでは物理的な欠けはありませんので、筆写されたときの誤写と言いたいのでしょう。

その他読みにくい字
一段「ハかした」  『いかした』 (「い」ではないです)
四段「ひはかくひの辺」  『ひ(此処二字分欠字)はかかひの辺』 同書では同じ仮名が続くときは「ゝ」という字を使っていますが、この部分の「かか」は不明。「二字欠字」も書写時に落したという主張か。
五段「そは」   『□□(二字不明)』(三文字として読めます)
「まとゝから」  『まことと』 (「から」を見落とし)