以下は、松田修『闇のユートピア』(新潮社)所収「幕末のアンドロギュノス」の要約です。「」内はそのまま引用した部分です。

(1)「権利としての乞食」

 「赤い羽根」などの街頭募金で、何故わたしたちは募金してしまうのだろう、何故彼らは当然の権利のように要請できるのだろうという問いかけから始まる。
 「この『権利としての要請』の原形には、古代日本における『権利としての乞食(こつじき)』が考えられるのではないか」。
 藤原氏の専制政治のきっかけとなったといわれる長屋王暗殺事件。長屋王は、乞食の僧に対して非情な仕打ちをしたために、その報いで滅びたのだと平安初期の『日本霊異記』に書かれる。一方、片岡山で出会った乞食に、自らの美しい衣服を脱いで与えたという聖徳太子。乞食は尊い仏の化身だったと『日本霊異記』はいい、太子は徳の高い人として日本人の尊敬を集めていった。
 尊い神や仏は、みすぼらしい異装で現われるという。『日本霊異記』の話は大陸の説話に基づくものかもしれないが、「貴種流離の発想----素盞嗚尊から、大己貴尊、日本武尊たち、神々の聖なる系譜において、神なるがゆえに流離し、零落するという様式は、おそらく乞食思想以前に定型化されており、乞食化身の発想の普及を、想像以上に容易にしたものであろう。」 蓑笠をまとって家々の戸口に現われたという素盞嗚尊。「八重山のニイルビト(常世神)、秋田男鹿半島のナマハゲたち、神はいつの時空にも、来訪者であり仮想者であった」。

(2)零落した神、両性具有のヒーロー

 江戸時代に、能楽者、座頭、瞽女から乞食に至るまで、「配当」と称する、各藩からの「当然の権利としての受給」があった。「近世以後の多くの物乞いたちは、おそらく古代的な乞食したがって神々の裔であり、その意味では乞うことがねだりに転回することも、必ずしも堕落とはいいがたいのである」
 歌舞伎の物語の弁天小僧も同様に、無宿の身で、ゆすり、たかりをする。娘姿の弁天小僧と中間にばけた南郷力丸。弁天小僧は異装の小さき神、南郷は育て神というコンビは、日本の物語に多いパターンである。

「零落した神々の姿を、江戸の民衆は、両性具有においてイメージした。それはおそらく庶民の合理を超えた次元での知恵ではないだろうか。かつて蓑笠・法衣・袈裟の下に隠身があったように、振袖の、はては女袷の下にさえ、眩い神の聖痕に彩られた裸身があった。」
「日本の神の常態というべきは、小さ神であり、おう弱の神であり、犯しの神であった。ことに当れる罪のゆえにさすらい、罪とさすらいのゆえに神聖である」
「押しかけゆすりの邪神たちが、花の異装に綺羅をつくし、聖・悪・美が混在混融して妖異の世界をかいまみさせること----それこそが幕末演劇の機能ではなかったか」

「アメリカ、東部湖沼地帯のナンディ族は成年式に男女それぞれの恋人の衣装で仮装して受苦する。ブエブロ諸族には「男女」という男にして女の生活をする特殊者がいた」
「古代ゲルマン、東方スェービー諸族のうちナハナルワーリー族は聖林を保ち、女装(じよそう)した司祭がこれを管理する」
 

(3)演劇のヒーローと一揆のヒーロー

 弁天小僧菊之助の他にも、幕末の英雄たちには「小僧」の名が多い。鼠小僧次郎吉、因幡小僧新助、因果小僧六之助、秋田小僧金五郎、天狗小僧霧太郎など。実像はともかく民衆にとっては、義賊であり神出鬼没の少年のイメージである。
 天狗小僧霧太郎の『都鳥廓白浪』は、「吉田家の零落した貴公子松若丸が、昼は女として遊女勤めをし、傾城花子、夜は天狗小僧霧太郎として盗賊稼業にいそしむという奇異な話であるが、霧太郎こそ、年少貴種にして流離し、受苦し、異装する神であった。」
 同様に、『小春隠沖津白浪』の小狐礼三や、『御国入曽我中村』の白井権八。
 このような両性具有のヒーローは、演劇や物語の世界だけのことではなく、現実の打ち毀しや一揆のヒーローとしても出現した。
 天明7年の江戸の記録に「数十人の打ち毀しの中に、美少年一人、大入道一人交じりて、少年は飛ぶ鳥の如く飛び廻り、入道は金剛力士の如くにて、目も綾なりと、見たる人語りき」とある。事実かどうかはともかく「民衆の集団的幻視」の事実として記録されている。時代は遡るが天草四郎の姿にも重なる。上州そのほかの打ち毀しの記録にも「美少年の指揮による反逆一揆」の事例が多く見られる。

あとは読んでのお楽しみ
滝沢馬琴『近世説美少年録』、『南総里見八犬伝』について詳しいです

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