女装(じよそう)の被葬者?

2006/11/23 木
奈良県の藤ノ木古墳は六世紀末頃の築造と言われます。七世紀始めには2〜300メートル東に聖徳太子によって法隆寺が建てられています。
『日本史七つの謎』(講談社文庫、松本清張、佐原真、門脇禎二の座談)という本に、奈良県の藤ノ木古墳の二人の被葬者について、不思議な記述があります。

佐原 ところで、私は猪熊兼勝さんから教わったんですけれども、あの立派な鞍は女性用なんですね。
松本 ええっ。女性用?
佐原 鞍の後ろの板の内側に把手が付いてまして、把手を掴んで横乗りするんです。これは韓国慶州の皇南大塚の北墳からも出ていて、そこでは「夫人帯」と書いた付札も出ていますから、間違いなさそうです。
松本 だけど、あの二体の遺体は男でしょう。
佐原 ええ。九一年の十月に片山一道さんが骨を調べて、九〇パーセントの精度で両方とも男だと発表されました。
松本 すると女性用の鞍と被葬者の男性の問題はどうなりますか。
佐原 そのお答えの前に、実は、藤ノ木では足くびを玉で飾っています。これもまた女の埴輪に共通するので、猪熊さんは考古学だけで考えると、女説はすてがたいというのです。しかし人骨が九〇パーセント男だとなると、それをイエスといわざるをえないのです。

二人の被葬者は、生物学的には男性であるらしい。しかし一人は女性が身に纏うものとされている副葬品に囲まれていたとことになります。ということは生前もそのような服装や道具を使用していたのだろうと思われます。生れが男性である人が、一種の巫覡となって女装(じよそう)などもして重要な役割を担ったのではないか、と考えるのが自然だろうと思います。

藤ノ木古墳は特に大規模な古墳ではなく、被葬者は、天皇や皇子ではなく、国造クラスの人だろうと、平凡社の百科事典の説明にありました。国造(くにのみやつこ)とは、大和朝廷に服属した地方の小王といった意味でしょうか。(日本書紀などに登場する有名人物のほかにも無名の人々はたくさんいたでしょう)

日本書紀にヤマトタケルの熊襲征伐の話がありますが、「西の方に熊曾建(くまそたける)二人有り」とあって、兄弟のようにも見える二人の熊襲建という人物が熊襲の国を治めていたそうです。こういう二人で小地域を治める例は、日本書紀・崇神天皇の条の出雲振根と弟の飯入根、古事記の神武天皇の条の大和の宇陀の兄宇迦斯(エウカシ)と弟宇迦斯(オトウカシ)など、古代には多かったようです。
二人のうちの一人は女装(じよそう)でなければならない役割があったのだろうと考えても良いのではないかと思っています。

「古代の二人の首長」の話は、鳥越憲三郎という歴史学者の本にも出てきます。年少の弟が皇位を継承する末子相続が古代に多かったのは、兄が政治、弟が祭祀という分業統治だったからだという説です。弟のほうが女装(じよそう)ということになります。
こうした政治と祭祀の二重の統治形態が地方の村々にまで行われていたとしたら、祭祀者になりたいという年少者たちが何人もいたとしても不思議ではありません。伝え聞く古い時代の王位継承争いの話なども、二重の統治形態から見直してみるのも面白いかもしれません。
幼き日を女装(じよそう)で過してきた年少者たちが、成人の後に、普通の男になるか祭祀者になるかといったとき、彼ら個人の意志というものも無関係なものではないことでしょう。年長者たちの権力に対して、年少者たちは、祭祀と女装(じよそう)への憧れの生活でした。
哲学者の言葉ではないけれど「権力への意志」ならぬ「女装(じよそう)への意志」だったのかもしれません。

現代の「トランスジェンダー論」において、歴史上の王の女装(じよそう)、祭祀での女装(じよそう)は、「個人の意志」によらない女装(じよそう)と分類されることもありましたが、この「個人の意志」とは現代医療の側がその治療対象の選別のために設けた一つの基準にすぎないこともよくわかると思います。