三輪の神の「女装(じよそう)

2005/8/27 土
 能の『三輪』について、舞台を見たわけではありませんが、解説を見ました。
 あらすじはこんなかんじ……

 大和国の三輪山の麓の寂しい庵に住む僧のもとへ、毎日、樒(しきみ)と水を届けにくる女がいる。秋のある寒い日に、女が寒がっていたので僧が衣を一枚与えて、住みかを聞くと、
「わが庵は三論の山もと、恋しくば、とぶらひ来ませ杉立てる門(かど)」
という歌にある「杉立てる門」だと言って去る。
 さて三輪明神に参籠していた男が、御神木の杉の枝に一枚の僧の衣が掛かっているを見つけた。その知らせを聞いた僧が来てその衣を見ると、裾に和歌が書いてあり
「三つの輪は、清く浄きぞ唐衣、くると思ふな、取ると思はじ」
と読める。すると杉の木の陰から声がして、女姿の三輪明神が現われ、神も衆生を救うため人間のように悩み迷うこともあると語り、三輪の妻訪いの神話や天照大神の岩戸隠れの神話を物語りながら、夜明けまで神楽を舞う。
(参考 http://www2.begin.or.jp/sakura/sai05.htm)

 「三輪の妻訪いの神話」とは、女のもとに通ってくる男があり、朝にはいなくなっているので不審に思い、夜のうちに男の衣の裾に糸をつけておき、翌朝糸をたどって歩いていったら三輪の神だったという話。つまり三輪の神は男だったのです。それが何故かこの能では女の姿で現れます。
 「思えば伊勢と三輪の神、一体分身の御事、今更何と磐座(いわくら)や」とも謡われるように、三輪明神と天照大神を一体のものと見る意図のためなのでしょうが、それは神楽を見せるなどの単に「演出上の意図」だけだったのかは、よくわかりません。
 次回は、能の『葛城』について

---追記---
※三輪明神とは今の奈良県桜井市の大神神社(おおみわじんじゃ)のこと。
能のストーリーでは、神でも悩むことがあり、その悩んだときの姿が、女姿だと言っていることになります。

葛城の神の「女装」

2005/9/5 月
奈良県の葛城山と「女装」の話。といっても"葛城蘭さん"とは関係ありません。^^ゞ
葛城山の神は、葛城の一言主神(ひとことぬしのかみ)」といい、男の神で、素顔は醜かったらしいのです。この葛城の神が、あるとき役行者(えんのぎょうじゃ)に、山から山へ岩の橋を架けるように言われました。葛城の神は、醜い顔を見られるのを恥じて、昼は仕事はせず、夜だけ働きました。そのため期限までに橋はできず、その罰として、つた葛でからだを七回りも縛られてしまったというわけです。こういう伝説(岩橋伝説)をふまえて能のストーリーがあります。

さて能の物語では、出羽の国の羽黒山の山伏が、大和国の葛城山へ来たとき、大雪に降られて難儀していると、一人の女が現われます。山伏は、女の家に招かれて、暖をとることができました。じゅうぶんからだを暖めると、山伏は夜の加持祈祷を始めました。すると女は、自分の苦しい胸のうちを訴えて救いを求めたのです。女の苦しみとは、「岩橋を架けるのが遅れて、つた葛でからだを縛られてしまった」ことで、女は静かに舞台から消えます。
山伏が女のために祈祷を続けていると、女姿の葛城の神が現れ、大和舞を舞います。それは苦しみから抜け出すことができた喜びの舞でした。
参考 http://www.osakanews.com/mite-mite-kansai/04/kongou050304.htm

前回書いた『三輪』の話と良く似ています。
僧や行者の中には神と対等なくらいの人もあって、神から救いを求められるということもあったのでしょう。それはその時代の考えですから、そのまま受け入れて見るしかありません。
神は苦しみや喜びを表現するときは女姿になってしまうのかもしれません。
『葛城』の話では、その苦しみは容姿が醜いことが原因でもあるようなのですが、結果的にはそういう醜さからも救われたということなのでしょうが、よくわからない話ではあります
★補足
神が人間の僧に救いを求めるという話は今ではわかりにくい話になっていますが
日本の仏教に本地垂迹説という考え方があって、日本の神々のおおもとはインドの仏様であって、仏が現実社会に現れた形が神であり、だから仏を信仰しなさいということなのです。そういう仏教の立場からすれば、神の上位に仏があり、時には修行をじゅうぶんにつんだ僧は仏に近い存在となって、神の上に来るのでしょう。これは僧たちの考えであって民間信仰ではありません。
また、女姿だというのは、女性は常に罪深い存在で救済の対象であるという仏教の考え方によるのかもしれませんが、それだけではないのかも。

★化粧坂のヤマトタケル 鳩子
奈良県の葛城山の中腹の橋本院と極楽寺のあいだに、化粧坂というところがあり、昔、ヤマトタケルが女装して土蜘蛛を討ったところだそうです。
土蜘蛛(つちぐも)とは大和朝廷に服従しなかった人たちのこと。(2005年10月18日)