百姓一揆と美少年

2005/3/7
 江戸時代の関東地方は、幕府直轄領も多く、旗本の知行地あり、また大大名から小大名まで、さまざまな領地が細かく分割され複雑に入り組んでいたそうです。ちょっと隣村へ入って、もし年貢などの待遇がまるっきり違ったりするなら、一揆なども起こりかねません……、……というふうに最初の原稿(2005)で書いたのですが、実際は武士たちは注意を払って対応したので、そういうことはほとんど起こらなかったらしいです。
 江戸時代の後半になると、かなり経済が発達してきます。関東地方は畑作地帯も多く、特に上州では米作が少なく畑作が多く、それは貧しさを意味することだったのですが、だんだんと畑に桑を植えて、養蚕が盛んになり、農家の現金収入も増えていきました。生糸を作り絹織物を織ることは、女性の収入になって「かかあ天下」などとも言われたのですが、男性の収入も急に増えて、宿場町も賑わい、お金の使い道の一つとして、博打なども盛んになってしまったようです。そうした「博打打ち」と呼ばれた人の中から、親分と呼ばれるような人も多く現われ、そうした親分衆を統括したのが上州の国定忠治という人らしいです。(2015)

 一揆あるいは「打ちこわし」では、女装(じよそう)の美少年がたびたび出没します。亀井秀雄氏はこういった打ちこわしの特徴として「百姓と城方の武士が衝突した時、派手な女装をした少年がどこからともなく現われて、百姓の先頭に立って武士と戦い、いずこともなく姿を消してしまった、というような伝承がついている」ことを指摘します。
 明和元年(1764年)の上州から武州の一揆の記録、『狐塚千本鎗』には、「年十七八歳と見へ、行儀・器量余人にすぐれたる男、壱人いづこともなくはせ来り、城のかたを瞋(にら)み、大勢の城兵を目懸(めがけ)、一文字にはせ掛り、東西南北を切りやぶりける。その勢猛虎のごとく」と書かれます。
 こうした女装の美少年が一揆を率いる姿は、松田修氏もいうように、島原の乱での天草四郎や、南総里見八犬伝に登場する美剣士たちの姿にも重なります。
 古代の隣国新羅には花郎という女装の美少年をいただいて軍事行動をもおこす男子の地域集団があり、日本にも類似の組織があったのでしょう。それらと通じているものはあるのでしょうが、時代は隔たっています。
 女装の美少年には神が憑依したのでしょうが、それは神の力を借りて戦いに勝つという信仰とともに、同時にこれから起こる殺戮への贖い行為でもあった、という意味のことを松田修氏が述べていたと思います。
参考
「亀井秀雄の発言」
『幕末のアンドロギュノス』について
『狐塚千本鎗』(日本思想大系58 岩波書店 1970)