『義経記』での牛若の服装

2005/7/6
 源義経(牛若丸)の少年時代の話です。
 鞍馬山に預けられて山伏たちのもとで稚児として育った牛若でしたが、15歳のころ源氏の子であるという自分の生まれを知り、武術の修行にもはげむようになります。元服直前の数え16歳の春、奥州平泉への旅立ちを決意します。
 牛若が鞍馬山を出るときの、いでたちは、次のように稚児の姿のままでした。遮那王とは牛若の別名です。

「承安四年(1174)二月二日のあけがた、遮那王は、ついに鞍馬の山をでた。
 ひとかさねの白い小袖に、唐綾をかさね、さらに播磨浅黄の帷子を上にきて、白い大口ばかまに、唐織物の直垂をつけ、れいの敷妙という腹巻をその下にかくし、紺地の錦でつかもさやもつつんだ護身用の短刀、と、それにあの黄金づくりの太刀を身におびたうえ、うす化粧で、まゆをほそくし、髪をたかく結いあげた。」(口語訳 高木卓 以下同じ)

 薄化粧をしていたとあります。当時の服装についての言葉はわかりにくいのですが、なかなか良い表現だと思います。
 山を出た翌日には近江国の鏡の宿に泊りましたが、そこではこんな感じ。遊女に混じっていたというので、表現はこちらのほうが艶っぽいものです。

「奈良でも比叡山でも美少年の名のたかい牛若が、鞍馬の山をおりてきたままの稚児すがたなので、色の白さはもとより、おはぐろでそめた歯、ほそくかいたまゆ、そうして被衣をかかげたそのすがたは、さながら、むかしの松浦佐用姫が、夫を見おくって領巾をふったすがたも、こうかと思いあわされるほどであり、ことに寝みだれ髪の、どこかなまめかしいふぜいは、うぐいすの羽風さえいとう、いたいけな、あでやかさである。れいの、唐の玄宗皇帝のころなら楊貴妃に、また漢の武帝のころなら李夫人にくらぺたいような、美しいすがたであった。」

 牛若はまだ元服前で稚児という立場ですから、こういう服装になるのでしょう。けれど数日後、尾張国の熱田神宮で、牛若は元服して義経と名のります。成人したわけですから、稚児の服装ではなくなったものと思います。義経の奥州への旅は、成人儀礼としてのものと思われます。

 余談ですが、古代のヤマトヲグナの九州への旅のときも、成人直前でした。童男と書いてヲグナと読ませるように確かな少年だったのですが、熊襲でクマソタケルを倒したのちに、成人の名であるヤマトタケルを名のります。熊襲において成人したことになりますので、旅の往路は、ずっと女装(じよそう)だったのかもしれません。

 さて、その後の義経は、京で弁慶と出会います。物語ですので、つじつまの合わない部分もあるのですが、五条の橋の上で出会ったときは、名前も牛若丸ないし遮那王と名のり、女装のような稚児の姿でした。『義経記』では、義経の刀を奪いそこねた弁慶が、清水寺にやってきて義経に再挑戦しようとする場面があります。

「義経は、じぷんがこうしていることを、どうして弁慶が知って、ここまで来たのだろう、と思ったが、弁慶のほうでは、じつはよくわからなかった。というのは、義経は、それまで男の身なりだったのを、女に変装して、衣をかぶっていたのである。弁慶は思いまよったが、ままよ、むりにでもあたってみようと、刀のしりざやで、義経のわきの下を、ぐっと、つきうごかしながら、
『稚児か、女か。じぶんもおまいりにきたものだが、そっちへどいてくれ。』
そういったが、義経は、返事もしなかった。」

このあと二人で一緒にお経を読み続ける場面があります。

(2010年6月一部修正)