小若のお歯黒

2011/8/5
永井義男氏の「おとこおんな、おんなおとこ」という記事。
http://homepage3.nifty.com/motokiyama/nagai4/nagai4-21.html
江戸時代の二人のトランスジェンダーの話で、
その1は、「竹次郎の出産」の話(こちらに書いたことがあります。「竹次郎の出産」)
その2は、縫箔職人の重吉の女房・小若の話がありました。これについて見てみます。

幕末の嘉永五年(1852)の話。江戸の麻布今井寺町(今の六本木あたり)は、お寺や商人と職人の多い町だったらしいですが、重吉の女房・小若は男ではないかという噂が立ったそうです。小若は、新内節のお師匠さんもしていて、美声だったのでしょう。何らかの問題が出て、奉行所へ召し出されたときは、弟子たちも、近所の人たちもびっくり仰天。結局、奉行所から罰として「手鎖」を言い渡されたそうです。『藤岡屋日記』にある話らしいです。

縫箔職人とは、布地に刺繍や金箔などで加工して舞台衣装などの生地にする職人です。
手鎖とは、両手に手錠を掛けられて何十日間か自宅謹慎させられること。手錠を掛けられては三味線などは弾けませんが、家事くらいはできます。「手鎖」は相応の罰金を納めれば済むこともあったそうですが、小若のケースではわかりません。

噂になってしまった原因については、女房なのにお歯黒を付けなかったこと、銭湯へ行かずに行水で済ましていたことなどが書かれています。

小若はなぜお歯黒を付けなかったのでしょう。
そして奉行所が罰を言い渡した理由は何なのでしょう。
永井氏は「とくに悪いことをしているわけではないのだが、手鎖という処罰を受けたのは、「世の中をいつわっていたのは不届きである」ということであろうか。」と書かれています。理由はよくわからないが強いて言えば……というニュアンスです。
奉行所に呼び出されて、奉行所において見るからに女として振る舞った。これが「公儀を偽った」といえば確かにそうかもしれません(噂の真偽を確めるために陰部を確認されたかもしれません、とすれば小若は開き直るでしょう)。「世の中をいつわった」といいますか、担当官を偽わったと見られたのでしょう。しかし世間では通っていたわけですから、世間的にはそのことは問題はなかったのです。
呼び出しを受けなければ、問題はなかったともいえます。なぜ奉行所レベルまで事が大きくなってしまったのでしょう。

噂が立ったくらいでは、奉行所が動くほどのことではありません。奉行所の人手も足りません。周囲に迷惑をかけていたなら、普通は町内で解決すべき問題です。大家さんなどの手に負えなくなったときにだけ、奉行所のお世話になるわけです。周囲の手に負えないほど、小若は、お歯黒がいやだったのでしょうか。

お歯黒は、既婚の女性や、相応以上の年齢の女性の風俗でした。ただし遊女などは例外でした。お歯黒をしないことが、普通でないと見たり、違和感を感じた人もあったのかもしれません。うるさい人が本人へ意見して、聞かずに、開き直ったような態度をとる。奉行所へでもどこへでも訴えればいいじゃないかと。職人の女房ですから、そのくらいのことは言いかねません。
お歯黒は、明治維新以後は急速にすたれていくのですが、こういう変化は、はたして明治政府の鶴の一声だけで切り替わるものでしょうか。そうではなく、庶民の間でも徐々に好まれなくなっていった時代だったのだと思います。男子のあいだでは、ざんぎり頭は幕末のころからかなり広まっていました。女子のお歯黒についてはよく調べていませんが、時代が大きく変わり、風俗までが変わりつつあった時代ですので、変化の兆候はあったでしょうし、実際にお歯黒をしない女性が増えていると考えるのが自然だと思います。もちろん一方では新しい風俗に違和感を感じる人が多かったことも確かでしょう。

「銭湯へ行かずに行水で済ましていた」というのは、やはり女湯へは行けなかったものと思います。毎日行水をつかうことは、小若の所帯だけが大量の水を消費することになります。水は、長屋の共同の井戸の水でしょうか。排水の問題もあります。これは近所迷惑になりかねません。冷静に考えると、この問題がいちばん大きかったのではないかと思えてしまいます。現代の法律では男湯へ行けということになるらしいですが、お歯黒をして行けるところではありませんし、ここは何とか小若の行水を続けられるように、両者で話し合うべきなのではないかと思います。それが決裂してしまったと考えるしかないようなのです。
裁判が武士の手にゆだねられると、武士の論理で裁かれます。大家と店子は主従関係のように見られますし、昔の武士道の忠義のための男色(幕末には禁止だったかも)とも違います。自分に不利になるという打算は、小若にはないようです。

お歯黒をはじめ、庶民の風俗が大きく変わり始めた時代でした。(2014.10.26 修正)