Alice Pinkie (一寸女子パート2)

「一寸女子パート2」です。
お盆のころに作った画像を忘れていました。
たまたま見つかったので、HPのコラージュのページにアップしました。

一寸女子 - Alice Pinkie
このシリーズは英語名を付けるようになっていました。一寸法師のことを Tom Thumb (親指トム)と訳すことがあるそうで、女子なので Tom ではなく、小さくなる童話の女の子といえば「不思議の国のアリス」、それで Alice。女子なので親指ではなく小指(Pinkie 米国口語)、というふうにしました。

お盆だったので、蓮の葉の上に乗ってる画像です。

一寸女子

夕暮れに、からだがどんどん小さくなってゆく夢を見ました。
小さなお椀の舟に乗って、一寸女子みたい。

たそがれどきに、一寸(ちょっと)女子。
日暮れの早い季節の、つかのまの……、……アバンチュール?

街灯の光が一つまばたいて、
せつないくらいのしあわせの詩。
人生のようにつかのまの一寸女子。

オリジナルをこえて

明日につながる詩

自分で書いてみて、
こういう詩は、昔どこかで聞いたような……、
そんなふうに思えたときの、詩が、好き。

このお話も、昔どこかで聞いたことがあるような気がして、
日記を書いていても、そんなふうに思えたときの、不思議。

どこで聞いたのだったか、思い出しても思い出せないけれど。

それは君のオリジナルだと、ある人はいうけれど、
少しはそういうところもあるのかもしれないけれど、それだけでもないような……。

今日また思い出してもわからない、永遠の謎。
共感してくれたあなたが、教えてくれると思ったのに。
あなたの微笑みの中に、明日また思い出してみます。

火星人のハルモニア

火星人はタコのようは八本足をしているといわれた時代がありました。
でも本当は、八本足なのは女性の火星人だけで、男性はイカのような十本足だったそうです。
火星では女性の守護星はフォボスとされ、男性の守護星はダイモスといい、どちらも火星の衛星です。
あるとき、九本足の子が生まれました。その子はハルモニアと名付けられましたが、女なのか男なのか、お産婆さんも首をひねりました。ちょうどその時代に、火星では女性のパンツルックが大流行していました。九本足のハルモニアが、女性のパンツをはくと足が一本出てしまいます。そのため、ハルモニアは、男性用ズボンをはいて、余った一本には義足を入れ、義足を引き摺りながら男社会で生きてゆくことになりました。
ある夜、ハルモニアは、夜空にフォボスとダイモスが行き違うのを見ながら、ふと思いました。
-----なぜ私は毎日こんな重い義足に耐え忍んで、身も心もすり減らして生きなければならないのでしょう。私は本当に男なのかしら。本当は女だったのが、間違って中途半端な足が一本余計に付いてきてしまっただけなのではないかしら。-----
思い悩んだ末に、ハルモニアは自分の足を一本食べてしまいました。そして女性としての人生を歩むことにしたのです。
それ以来、地球をふくめた太陽系のタコは、自分の足を食べてしまう癖がついてしまったということです。

異伝によれば、ハルモニアは女性服のまま、常に男性たちと女性たちの調停役であったとのことです。
(創作ですよ、もちろん ^^)

蓮華草と白詰草



野原の蓮華草の上に寝転んでいると、
小さな花の一輪を、
あなたが摘まんで、わたしの顔の前にかざす。
過去と未来の詰まったプレゼント。

白詰草の上を這いながら、
あなたが探す四つ葉の葉。
わたしが先に見つけてしまった四つ葉に、
あなたの指が触れる。

……
(感想)私は四つ葉の葉っぱだったのかも。
早く見つけて! と言っているような、
回りの葉っぱとは少し違う四つ葉の葉。
蓮華草の上に小さな十万億土が載ってたら?
(考えようによってはちょっとHな詩)

鳩子星・双子星



人は死ぬと星になるといいます。
星の世界では、彦星があって、織姫星があって、
やっぱり男女があるのでしょう。

私は、双子星の片割れが落ちて来ただけの存在なのかもしれません。

センチメンタル・トランス

さみしい気持ちになる季節。
毎日気がつけばいつのまにか夕暮れになってしまっています。

青春時代が春なら、もう夏は過ぎてしまって、いつのまにか秋にさしかかるような年齢になってしまいましたね。

花びらを重ねて装ったり、葉を繁らせて鎧のように身につけたりしたような季節は、もうやって来ないのかもしれません。

ひとつひとつ惜しみながら葉を落とし、花びらを散らしながら、
双葉の時代に還ってゆくような、とてもシンプルな世界を見たいと思っています。
脱ぎ捨てることでもあったような、そんなトランス。

悲しいけれど、怖くない

「悲しいけれど、怖くないもの、なぁーんだ」

なぞなぞです。なんでしょうね。

「玩具」? 暗い部屋で古い人形にスポットライトのような光が……、怖いですよ。

「雨音」? 誰もいない静かな夜に、ポツ…、ポツ…。怖いですね。

「60歳」? そんなトシになるのは怖いです。

「16歳」? やっぱり答えはこれかも?。

「ひとりぼっち」とか「死」とか言える人は、えらいです。

雨降りお月さんのお話

雨の夜は、お月さんも雲の陰にかくれてしまいます。
さいきん昔の童謡をスリラー話のように解釈するのが若い人たちのあいだで流行っているようです。普通の自然現象として人の死を歌にしただけでも、それ自体が生活感覚からかけはなれたことの見えるようになってしまったのかも。
「雨降りお月さん」という野口雨情の童謡は、お月さんがお嫁に行く物語を歌った童謡です。作られた当時から童謡の詩に添えられる絵は、たいていお嫁さんの頭とお月さんが重なって描かれています。http://jin3.jp/kimi/ujo-kashi.htm
 ♪雨降りお月さん、雲の陰
 ♪お嫁に行くときゃ、誰と行く?
2行目は疑問文ですが、だれに尋ねているかといえば、お月さんですよね。お嫁さんの絵は白いものを上から羽織っているものが多いですが、「雲の陰」の雲をたとえているわけであって、白装束(死装束)ではないでしょう。
 ♪一人でから傘さして行く
 ♪から傘ないときゃ、誰と行く?
お月さんは一人に決まってますよね。よく「月が笠をかぶっていると雨が降る」と言いますし、それで傘が出てくるわけです。で、月に傘がないということは、現実は既に雨が降ってるわけです。
 ♪しゃらしゃらしゃんしゃん鈴つけた
 ♪お馬に揺られて濡れてゆく
お嫁さんが馬に乗って行くというのは、大正時代の当時は消え去りつつありましたが、まだ少しは残っていた日本の風習です。最後に現実に戻るわけなのでしょう。

この詩は、もしかすると、ギリシャ神話の太陽が天馬(ペガサス)の馬車に引かれて空を渡るという話がヒントになったのかもしれませんね。お月さまにだって何か乗り物があってもいいんじゃないかしら。それはちょっと地味な普通の馬。そして馬といえばお嫁さん、というのは、江戸時代まで庶民が馬に乗るといえばおおむねお嫁に行くときくらいだったみたいだからなんでしょう。お嫁さんというのは昔は必ず泣くものでしたから、雨がぴったりくるわけです。

後半の歌詞で「急がにゃお馬よ、夜が明けよう」というのは、日が昇ったら月は姿が消えてしまって、目的地に行けなくなってしまうからです。人間なら夜中にお嫁に行くのは変ですが、お月さんは夜のうちしか行動できません。(以上がごく普通の解釈です)

月に関する昔話といえば、かぐや姫とか、月から落ちてきた水が里芋の葉っぱにたまって化粧水になるとか、女子に関する話が多いです。月が「死後の世界」だという話は近代の外国経由ではないでしょうか。

出さなかった手紙

「出さなかった手紙」がいくつかありました。
途中まで書いてみたけれど、自分の気持ちになんとなくしっくりこなくて、何日かしてからもう一度書き直そうと思って、そのまましまいこんだままになってしまったものとかです。(かなり古いものです)

そうやって忘れられてしまった手紙の配達を請け負ってくれる人が、宇宙のどこかにいるのかもしれません。異次元の世界かもしれませんけど。

「出さなかった手紙」をテーマにした他の人のブログを検索して少し見ましたが、なぜか暗い文章が多かったです。出さなかった手紙を、なにか失敗作のように考えていらっしゃるようです。ほんとうは、ただ未完成なだけなのかもしれないのに。

「人間は神の失敗作である」という有名な格言がありました。なかなかしびあですよね。
でも本当は、作りかけの途中で、神さまはちょっと眠くなったので、永い居眠りをされているだけなのかもしれません。

影は何でできてる?

道を歩きながら、地面に映った自分の影に話しかけてみたことはありませんか?
小さな声で、君はいったいどこの子なの? とか、
ずっと歩き続けてるのだから、もう休もうよ、とか。

お日さまの光は、影でない明るい場所を照らします。
でも影の部分は、何も光のない暗黒かというと、そうではなくて、薄暗い光が見えます。
その薄暗い光には、お月さまの光も混ざっています。
影はきっとお月さまの光でできているのでしょう。

でもそれは昼間の影のこと。
夜の影は、本当に真っ黒で、何でできているのか、よくわかりません。
お月さまの光は、ただ私のからだを照らすだけ。
私のからだは、お月さまの光でできているのかも。

冬のある日

私は生れたときはからだが弱かったらしく、4歳のころ生死の境をさまようほどの重い病気にかかったらしいのです。そのときの病気の記憶はまったくないのですが、ある冬の日に日向ぼっこをしながら見たもののことは、今でも鮮明に憶えています。見た内容はプライバシーなので書きませんが、ずっと病気で臥せっていた冬のある日、穏やかで暖かい日だったので、ほんとうに久しぶりに庭に出てみたときのことだったようです。

もし何十年か古い時代に生れていたとしたら、私は4歳の時に死んでいたことでしょう。
その後の私の生は、余分な時間の中の虚無にも見えますが、失ったものを引きずってでも生きて行かねばならない貴重な時間には違いありません。

自分の死を並べる詩人のように、このときの死がまた一つ、目の前に並びます。

ちょっとセンチに気どってみました。
本当は、「手なし娘」「阿闍世コンプレックス」につづく「百鬼丸コンプレックス」みたいなことを書こうと思ったのですが、後日にします。

阿闍世コンプレックス

 阿闍世(あじゃぜ)王子の苦悩は、自分の出生の秘密を知ったことから始まります。
 そのときから彼は、あれほどまでに優しく見えた母を憎み、押さえがたい母への殺意におののき苦しみ、若々しい肉体さえ醜く病んで行くのでした。
 母は古代インドの王妃でした。すでに若くはなく、かつての美貌は衰え、王の寵愛が薄れてゆくのを恐れた彼女は、王子が生まれれば王の関心をひけると思いました。そこで占い師に見てもらうと、森に住む仙人が3年後に死ぬので、その生れ変わりとして3年後に王子を授かるだろうと言われます。王妃はその3年を待とうとしたのですが、待ちきれずに、仙人を殺してすぐに王子を得ることを実行したのです。仙人は殺される間際に「自分は王子として生まれ変るが、いつの日か王を殺すだろう」という怨みの言葉を残しました。
 こうして王子が生まれてからも、母の脳裏からはあのときの仙人の言葉が離れません。愛らしいわが子の顔に仙人の怨念が乗り移って見え、恐怖におびえ、わが子を殺そうとまでします。母もまた苦悩の人だったのです。
 出生の秘密を知った王子阿闍世も苦しみます。しかし重い病に苦しむ阿闍世を看病したのは母でした。母はブッダに苦悩を打ち明け、ブッダの救いによって王子の病を癒し、母と子は初めて心を通わせることができたのです。その後、阿闍世は、世に名君と讃えられる王になったということです。

この話は「阿闍世コンプレックス」のもとになった仏典の話ということになっています。
私も日本人なのでこういう話はよく理解できます。今のような母と子の密着でなくて、距離を置きつつある時期においては危険な火種を内へ内へと封じ込めて行って、あるとき気がついてみたら楽になっていたような感覚です。
阿闍世コンプレックスとは、フロイドのエディプス・コンプレックスの東洋版として、古澤平作氏、小此木啓吾氏らによって提唱された考え方です。エディプスの話は、愛する母を父と子で奪い合うような、いかにも西洋の父系社会のお話なので、ぴんとこない人も多いのではないかと思います。森の仙人と阿闍世を父子関係と解釈できる余地もあります。

阿闍世の物語は仏典の話と書きましたが、実際のインドの仏典の話とはだいぶ筋立てが違うらしいです。悪く言えば日本の学者による改竄・捏造?なのですが、そういうのはそれほど重要な問題ではありません(松岡正剛という人も書いてます)。

もっと長く書きたいところですが、一つだけ。阿闍世は生まれる前に(森の仙人として)一度母に殺されていることになるのですね。1/15「絵葉書という歌」のところで、自分の死をいくつも並べて見ている詩人の話を書きましたが、こういう生まれる前の死も、死の一つとして並べることができるかも。

「絵葉書」という歌

『絵葉書』という1970年代後半の日本のフォークソングを聞いてみました。友部正人という人の歌で、いかにも1970年代という感じの歌なんですね。

自分が本当にいたのかどうか確認するために、いくつもシを並べているおじさんがいます。詩を並べているのかと思ったら、どうも死を並べているみたいです。生きることを並べてみても何もわからないというのですから、やっぱり詩ではなく死なんでしょうね。そのおじさんは金子光晴という詩人で、既に亡くなっている人です。
亡くなった詩人と会話をかわすように接したことを、しみじみとたんたんと歌っているわけなんですね。ふっと孤独感がよぎります。

亡くなった人と会話をかわすことは、一部の知識人を除いて昔の人なら誰もが経験してきたことでした。もし今の人にそれができないとしたら、それはやっぱり本当の人間の孤独感から遠ざかった生活に埋もれてきたためなんでしょう。

異次元の世界に行った詩人は、生きていたときも、自分の死を並べていたのかもしれません。そうすることによって少なくとも2つの死を並べることができます。
でももっとたくさんの死を並べていたような歌でした。
生きることを並べてみても、それはすぐに死に変わってしまうかもしれません。これで3つ並びます。

70年代は、異次元世界が身近に感じやすかった時代だったといえるかもしれません。
異次元世界にも自分がいて、だからもう一人の自分がいることが、とても自然に理解できたわけなのです。それは影踏みの影のようなものですね

人生の落ち穂拾い

インフォシークの広告は大きくなりましたが、ホームページは先細り、どなたさまも似たようなことになってはいませんか?
さて、

人生の落ち穂拾いの季節がやってきているような……。

というより、人類の歴史はもうとっくの昔に、落ち穂拾いの時代になっていたのかもしれませんね。

でも今までは収穫した穂よりも、落としてしまった穂のほうが多かったような気もします。

これまで見たり聞いたり、読んだりしたもののうち、ちゃんと消化できたものが、どれほどあったといえるでしょう。
それは、たぶん、落とし物だらけの人生。

いちばん大きな落とし物は、私自身?。
でも、ほんとうは、私自身が誰かの落とし物だったのかもしれないし。

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