オスの三毛猫

三毛猫といえばたいていはメスなのですね。でもごくたまにオスの三毛猫もいるそうです。

Wikipediaの解説を見てみましょう。
日本に多いらしいような?。
「1000匹に1匹程度」がオスと書いてありますけど、三毛猫1000匹のうち1匹程度という意味でしょうね。
Wikiには書いてないですが、三毛猫は品種の名前ではなく、毛の色が三色ということだけだったと思います。

なぜほとんどメスなのか、稀にオスがいるのはなぜかの説明は難しいですね。
wikipediaでは、親猫の遺伝子や染色体が組み合わさって子猫が生まれるとき、組み合せの条件によって三毛猫になるそうで、三毛の色はメスの性染色体XXと深い関係がありそうです。
メスのXXのうち「どちらか一方がランダムに胚発生の初期に不活性化されることにより、毛色がオレンジになる」……?。Xが片方しか活性化しないということは、ややオス(XY)に近い?といえないでしょうか。稀にオスに現われるクラインフェルター症候群は、性染色体がXXYという形で、その中に「XX」という要素があるので、部分的にメスに似た容姿を備えることもあるということでした。猫にもクラインフェルター症候群というのがあって、これも三毛猫になる要因の一つとか。それ以外にも、オスの三毛猫の原因はあるみたいで、専門用語で「モザイク」「遺伝子乗り換え」など話が難しくなります。

「福を招く三毛猫を船に乗せると船が遭難しないという言い伝えがあり、特にオスの三毛猫はその希少性のためからか福を呼び船が沈まないと言われ、江戸時代には高値で取引されていた」
三毛猫が航海の安全を祈祷してくれるみたいで、人でいえば巫女さんみたいな猫ですね。巫女というより男覡?
(漁師さんたちの船には女は乗れなかったので、ちょうどいいわけですね ^o^/)

少年と少女

「少女」という言葉を広辞苑で調べてみると、
> (1)おとめ。むすめ。(2)年下の方の娘。妹娘。(3)大宝令で一七歳以上二○歳以下の女子の称。

昔は15〜16歳で成人ですから、17〜20歳とは結婚適齢期。江戸時代以前は「少女」と書いて「をとめ」と読んで、年齢はもう少し幅があるかもしれませんが、要するに青年男子の恋愛対象となる若い成人女子のことなんですね。「少」は若いという意味です。

「少年」については
> (1)年の若い人。わかもの。多く男子をいう。(2)少年法及びその関係法令では満二○歳に満たない者。児童福祉法では小学校就学から満一八歳までをいう。

こちらは現代の法律用語の説明に力点が置かれています。法律では20歳ないし18歳頃以上を成年とみなして、「少年」は未成年のこととしています。
「少女」が成人女子のことだったのに、この違いは何でしょう?

広辞苑の「少年」の「(1)年の若い人。わかもの。多く男子をいう」というのが説明不足なのでしょう。江戸時代以前の本では、「少女」と同様に、成人した16歳から20歳くらいの男子を少年と呼ぶことが多いのです。つまり、少年とは古典の世界では少女と同様に若い「成年」のことなのです。
けれど現代の法律では「未成年」の意味で使われます。
そのことから古典の世界にみられる「少年愛」について大変な誤解をしている人も多いようですね。

毎日が秋休み

9月になりました。
「毎日が夏休み」というのは大島弓子の漫画で(映画化もされましたが)、登校拒否の女の子と、一流企業の会社をやてめしまった義父(母の再婚相手)の二人で、なんでも屋さんの営業を始めたころの、充実した日々を回想する物語です。「あの日のあたしはまぶしい永遠の夏休みを手に入れたのだ」なんて、すばらしいことですね。

そして最後に「海でおもいきり泳いだ後のような気分がしている」という言葉で結びになるのですが、個人的には、泳げませんので、泳いだ後の気分というのは、よくわかりません。

小学生のころ、ラジオ体操でなく、水泳教室というのが学校のプールでありました。私は夏休みになると、家を出てプールへ行くふりをして、公園でぶらぶらして、水飲み場の水で男子用の水着を濡らして、ビニール袋に入れて家に持って帰るのでした。一種の登校拒否みたいなものですけれど、人前で裸になるのが嫌だったのでしょうね。だから泳ぎをおぼえることもありませんでした。

そんなちょっぴり陰のある夏休みでしたけれど、「人生も濃くて深い影があれば、その裏にはかがやくまぶしい光がぜったいある!」というのもこの漫画にある言葉です。
「永遠の夏休み」「計画する、実行する、失敗する、出会う、知る、発見する、冒険とスリル、自由とよろこび」、いいですね。
そんな懐かしい思い出にひたるのが、秋休み?
でも、一日だけでも、かがやく夏休みが、再び訪れるといいですね。

昭和20年代の雑誌


昭和20年代の雑誌をお借りしたことがありますが、やっぱりいろいろと工夫をされているようです。
まだ着物が主流でもブラは必需品のような感じ。
かすとり雑誌というそうですが、文章のページも読みごたえがあります。さまざまな風俗をかたよらずにとりあげて、一人よがりなところもありませんし、自慢話もなくて、文章のプロの人たちという感じです。

藤山さんのスカート

英国の兵隊さんたちがはくスカートは、スカートでなく別の呼び名もあるそうですが、こまかいことはさておき、もう少し丈の長いスカートで英国スポーツのゴルフを楽しんでいた男性たちが、昭和の初めの日本にはいらっしゃたみたいです。人気歌手の藤山一郎さんのそういう写真も見たことがあります。藤山さんの生家は、日本橋でウール地などを扱う大きな問屋さんだったそうなので、英国のウールの生地で仕立てたものだったのでしょうね。
藤山さんのお父さんは、元は店の番頭さんだったそうです。江戸の町の店では、番頭さんが婿入りするケースがほとんどだったそうです。娘が跡を継ぐわけですね。ふさわしい娘がいなければ養女までとって番頭さんを婿にしたそうで、とにかく90%以上は婿入りだったそうです。

農村では婿入りは30%余り。関東では子どもが2人くらいしかいないので、それだけで子どもは女の子2人だけという家が25%できますから、家を出たい息子が数%かはいるでしょうから、そういう数字になるのでしょう。

武士の家では、江戸時代後半の江戸の旗本家について調べた人がいるそうで、40%くらいが婿入りだったそうです。子どもは少なくはなかったそうです。「旗本退屈男」という映画もありましたけど、かた苦しい生活で、あまり仕事がなくてひまをもてあましていた人ばかりなので、町人になって自由に生きたいという男子が多かったのかも。
そんなわけで日本では女系家族は、ほうぼうにあったみたいです。

季節と人生

季節は毎年くりかえします。秋は去年も来ましたし、もっとずっと前からそうです。あたりまえのくりかえしなのですが、ふと思えば、心がやすらぐものです。
人の人生にもそれに似たものが見つかればいいと思います。

肉体の若返りはあきらめるしかありませんが、心はどうでしょう。
たとえば、だんだんといろんなことがわかるようになってくると、今まで無理をしておつとめしてきたことも、ささっとできるようになります。心に余裕ができるのでしょうね。そのぶんだけどこかに天真爛漫な心がよみがえってくるような気がします。

田中優子氏がどこかで述べられていましたが、言葉は正確に憶えていませんが、江戸時代は右肩上りの進歩をめざすのではなく、「Z」の文字のような繰り返しが理想だったとか。

Zというのは、右へまっすぐ進んだと思ったら、また左へ戻っていてそこからまた右へ進むという感じ。江戸時代のことも、南北朝時代のことも、源平時代のことも、江戸時代において同時進行してゆくわけです。江戸時代は過去を否定しませんでしたからね。
歴史の中にもう一人の自分を見つけられたら、それはまた一つのくりかえしの現象ですから、新しい季節の発見です。
現代の風潮のように過去の歴史を否定してしまったら、それは発見できないでしょう。

読書の秋

HPの読書のコーナーの「私の本棚」のページを更新。
最近のオタク的な本もいくつか入ってます。オタク的というかカタログ的やBL的なものと、医療・法制的な本が、2000年代は多くなりました。出版点数も多いと思います。
1990年代は、今から思えば、ジェンダー論花盛りといった感じでした。ジェンダー論からのトランスジェンダー論ということだったかも。
1980年代以前は、関連する本は本当に少なくて、著者それぞれの個性が感じられるものばかりで、この分野では古典の扱いになってゆくのでしょう。

更新した項目の中に、大正時代ごろのものと思いますが、田中香涯氏の著作が国立図書館サイトで読めるのでリンクしました。無料で読めるので、読書の秋にいかがでしょうか。

昔の中国でのお話

こんなページを見つけました。
http://trushnote.exblog.jp/8682722/ 中国史における男色について
「後漢末期からは地方豪族・貴族の力が強くなり洗練された文化が栄えますが、その中で何晏に代表される美男と評判の男たちが白粉・紅を用いて女性同様に化粧をする風潮が見られます。それと連動してか、西晋時代になると「男寵が大いに興り、女色よりも甚だしかった」と記される程に貴族社会で男色が流行するに至ります。」
明以降は士族や文人にも広がったとも書いてあります。

さすが中国はスケールが大きくて華やかです。そこへいくと日本では、僧侶とか武士の話では、ひそやかで質実剛健というか、とても地味で、あまりお金のかからないやりかたです。日本の支配者は中国やヨーロッパよりもずいぶん質素な生活をしていたからなのでしょうね。

中国では、纏足(てんそく)といって、小さい足の女性が美人とされたことから幼いころから小さい靴をはかせたりして不自然な生活をさせたそうですが、それほどのお国柄ですから、「男寵」に選ばれる少年たちも小さいころからある種の肉体加工をしていたのではないかという疑問がわきます。「宦官(かんがん)」との関係はどうなのでしょうね。日本では稚児に肉体労働をさせないくらいのことは聞いたことはありますが。

日本人は、無理をせず、ぜいたくもせずなのですが、そのおかげで、美意識の世界や情緒的なものに関心が集まって、美のはかなさのような人生観が語られるわけなのですね。ただ残念なのは、華やかさが少ないために、日本ではこの分野のことは男色の研究者の専門になりすぎるきらいがあるように思います。もう少しトランスジェンダー的な視点から見直ししても良いのかもしれません。

^.^ゞ

行楽の秋

世界が明るくなったような写真ですよね。
これはセルフの撮影で、カメラは押すだけしか知らないのですが、ときどきこういうふうに光が強すぎて撮れることがあります。雰囲気はいい写真だと思います。

行楽の秋、関東で人気なのはやっぱり箱根でしょうか。
江戸時代に箱根には関所があって、「入り鉄砲に出女」といって、江戸から出て行く女、特に大名家のお姫さまなどが変装して出て行かないように、厳しい取り締まりがあったそうですが、こんな狂歌があります。

 どうしても男と見えぬ女形 半時かかる関の改め

1時間(半時)も調べられるのはたいへんです。

 むづかしや関で見らるる若衆の乳(ち)

男の役人ではなく「改め婆」という老女が、からだを見てセックスチェックをしたそうです。

 若衆の美し過ぎて関所で念

念を入れてチェックされるということでしょうね。

ヨーロッパの中世の

アクセスログを逆にたどって横道にそれて珍しいものを見てくる、ということを久しぶりにしてみました。
見つけたのは、『埼玉学園大学紀要』、それに載ってたのが「異性装から見た男と女」(赤阪俊一氏)の数回のシリーズで、ヨーロッパの中世のことが書かれてありました。

中世のヨーロッパでは、女性が男装の聖職者になっていた例がけっこうあって、それは、極端な男性中心社会の中で、男になることが宗教的な救済であり、そうした女性たちの評伝のようなものも多く、必ずしも社会から否定的には見られていなかったようなお話だったと思います。
また、男性の女装(じよそう)は、演劇などの遊戯的なものを除けば、さまざまな形があったけれど、反社会的なものと見られていたそうです。

男装の聖職者の伝記などでは、本人が亡くなって葬られるときに、はだかにされ、そのときに初めて女性だとわかるというシーンが必ずあって、それが物語のクライマックスになっているとか……。ちょとこういうのは気になりましたね。いかにも男性視線の物語です。そういうようないわば好色的な意味での男性視線にとどまらず、引用される文献などのどれもこれもが男性中心主義のような考えで貫かれているわけです。なので読んでいてそんなに楽しいものではありません。

ああいった男権主義は本当に当時の庶民生活のすみずみにまで徹底されていたのでしょうか。暗黒時代といわれた中世のヨーロッパの話は、どこまで本当なのでしょうか。近世初期のボッカチオなどの物語が突然誕生すると考えるのは不自然に思えます。
日本でも、江戸時代暗黒時代説のようなものがあったらしいですが、時代も近くて豊富な資料が残っていますので、それらによってどんどん否定されています。でもヨーロッパの中世は、ずいぶん昔のことです。無理に女色をたったような男性聖職者たちの書き残したものしかないとすれば、なかなか実像はわからないのかも。
それともちょっとパラノイア的なところのある男性聖職者たちの書いたものを精神分析的に考察するのはどうでしょう。

アンドロギュノス

アンドロギュノス
画像は、既に閉鎖になったあるサイトからいただいた絵です。
ギリシャ神話のアンドロギュノスをモチーフにした絵で、当サイトでいちばん多く読まれている「ギリシャ神話とアンドロギュノス」のページで使用したのは、2004年11月のことでした。

「古代の最初の人間は、頭が二つに手足が四本づつあって、今の人間二人が背中合わせにくっついたような形で、丸いからだをしていました。男と男がくっついたもの、女と女、そして男と女の組み合わせの、三種類の人間がありました。この男と女が一体となっていた人間のことを、アンドロギュノスといいます。」

太古の時代、いまだ性別が未分化の時代の両性具有の存在というわけですね。
それとは別に、ヘルメスとアフロディティの愛の結晶であるヘルマフロディトスという美少年も、両性具有的な存在でしたが、こちらは一度分れた性別が1つのものに復元してゆくような存在ともいえます。

絵では、足は3本のようにも見え、上半身から分れているようにも見えますが、画家のイマジネーションによるものなのでしょう。15世紀の古い本に描かれていた絵だそうです。

歴史上の人物で女性説のある(その2)

その1を書いたのはもう半年前ですか……。
その後、『つくられた卑弥呼』(義江明子著、ちくま新書)という本をぱらぱら見てたら、面白いことが書いてありました。
古代の九州地方にクマソという国があって、クマソタケルあるいは川上タケルともいう兄弟が治めていました。兄弟はヤマトタケルと戦ったことで有名ですが、異伝ではヤマトタケルの父の景行天皇と戦った話もあるようです。この兄弟のことなのですが、「弟」と書かれていても男であるとは限らないという話。
そうでしたね。兄とか弟とは、兄弟姉妹の中の年長者と年少者を区別するだけの言葉だった時代がありました。龍宮の乙姫さまも、その名前の意味は弟姫で、姉妹の姫のうちの年少の姫という意味です。ヤマトタケルの后の名も弟橘姫でした。
『古事記』などに登場する兄ウカシ弟ウカシの兄弟も男とは限らないことになります。こういう発見は面白いですね。日本の男色またはゲイの起源ともいわれるアヅナヒの罪の話も、実際に読んでみたら二人の人物の性別は書いてなかったですから、薔薇でなく百合の起源になるかもしれませんし?

『つくられた卑弥呼』はあまり面白くない部分もあります。巫女であることよりも、政治的軍事的指導者であることが、価値の高いことだとするのは、著者の価値観なのでしょう。卑弥呼は雄略天皇に似て雄々しかったといったようなことも書いてありましたが、古事記や万葉集の相聞歌を素直に読めば、雄略天皇はああいうイメージではなかったです。若々しく情熱的で不思議な体験を引き寄せる能力のある人というイメージです。
歴史上の人物で女性説のある(1)

同じような体験

ヤマトタケルさんの話といえば最近二人の順子さんの本の最初の部分にありました。どちらもほんとうに充実したデータベースのようなものをお持ちで、多彩な話題が展開されています。一人は三橋さんですが、もう一人の佐伯さんは、『遊女の文化史』で「性が聖であった時代には性関係がすぐれて公的性格を有していた」とか「松浦サヨヒメが固有名詞ではなく」と書かれたような視点は、ヤマトタケルの話では少ないのが残念です。

大和の国の王子も、ひなびた東の国の山奥の王子みたいな者も、華やかさは違っていてもよく似た経験をしていたとしたら、もう固有名詞では済まなくなるのですね。
似たような話が全国にあるとしたら、それは話の上だけのことではなくて、体験そのものが共有されていたと見るべきでしょう。そういう体験のほうが、個人的な動機を語られるよりも、ずっと身近でリアリティのあるものだと、そういうことを考えてきました。
公的なものだというのは、そういったあちこちで同時に起っていたような祝祭空間のようなもののことで、公娼私娼の分類のようなものではないのですね。

今月は9回目の更新です。あと1回あるかも??

ヤマトタケル

むかしヤマトヲグナが熊襲の国での祝宴の場に少女の姿で立ったとき、宴の主である川上タケルに指名されて、同じ一つの席で「戯弄」されたそうです。
辞書によると「弄」は「玩」とよくにた意味の漢字で、時間をかけて愛玩するという意味とあります。少女姿のヲグナが可愛がってもらったのでしょう。「弄」の漢字の成り立ちについては、面白いことが書いてあるものですね、漢字を分解すると「『玉+両手』で、両手の中に玉を入れてなぐさみにするさまを示す。転じて、時間をかけてもてあそぶこと。」(新字源)だそうです。なるほど玉ですか。さて、そのあと二人で何をしたかは御想像におまかせというふうになっています。
そのときの祝宴が何の祝宴だったかというと、親族を集めての新築の祝いです。新築祝は結婚を意味するらしいのですが、川上タケルと誰の結婚なのかは書いてないのですね。
ところがこのあと話が急転回して、川上タケルは刺殺されて、熊襲国は大和国に服属することになります。そのとき川上タケルは、タケルという名前をヲグナに与えて、ヤマトヲグナはヤマトタケルと名のるわけです。日本書紀の話。

勝ったほうが負けたほうの名前を名のるというのは現代人には理解しにくいでしょうが、王の名前にこめられているものは、その国の根幹の魂であって、それを手に入れるために、敗者の名を名のるというわけなのでしょう。
古代の服属儀礼というのはそういうところがあるようです。地方の王の娘を、中央の大王のもとへ采女として差し出すというのも、近代的な好色話のことではなくて、地方の国の魂がその国の巫女のからだにこめられて、中央の魂と合一するということなのでしょうね。
古代のギリシャ周辺では、勝った王が負けた男王を去勢して、その部分を食したことがあったそうで、それによって新領土の支配権を確立できたそうですが、男王のその部分に支配した国の魂の全てがこめられていたと解釈すれば、日本で名前を献上したのと同じ意味になります。肉食文化ととそうでない国のやりかたが違うだけです。 モノというのは、そんなに簡単には新しい人の持ち物にはならないわけなのでしょう。まして一つの国の国土の全てですから。

あちらでは口を通してそのものを体内にとりこんで、消化したことになります。ヤマトヲグナと川上タケルの関係では、「下の口」を通して一時的に体内にとりこんだみたいですが、消化してしまうわけではありません。でも体内にとりこんだことは共通しています。現代では入れたほうが支配欲を満足させるという男性原理の解釈が多いようですが、古代では必ずしもそうではないのでしょうね。
(以上は日本書紀の物語から書きましたが、古事記ではストーリーが少し違います)

出生の秘密?

三日に一度は書きたいと思っていますが、今月はまあまあのペースです。

ドラマ「ゲゲゲの女房」のお話。新人少女漫画家の悩みは、マンネリパターンのストーリーばかり書かされることだそうで、そのパターンの一つに「出生の秘密」というのがありました。1960年代、ありましたよね、そういうの。
出生の秘密ストーリーにもいろんなパターンがありましたが、自分は本当はもっといいところの生まれの子かもしれない、というのが一番だったかも。いつかお金持の親が迎えに来るかもしれないとか、映画の「三丁目の夕日」でもそういうシーンがありました。

日本の昔話のヒーローは捨子であることが多いそうですが、とにかくそういうのは、日本の社会に養子縁組が多かったことを物語っているわけなのでしょう。江戸時代には身分社会というタテマエを、養子縁組というホンネでいとも簡単に越えてしまってました。家や店の"のれん"を守ることが大事だったので、どうにもならない息子は平気で勘当して、養子をとったりします。代々続いた店はほとんど番頭さんが婿になったらしいです。
かといってみんなが身分を越えたいと思っていたというわけではないのですが、勘当された放蕩息子の若旦那には、庶民は憧れてたみたいです。そういう落語の噺がたくさんあります。

江戸時代にトランスジェンダーに対して寛容な社会だったのは、親子関係も一種の見立てにすぎないのだから、性別も見立てでじゅうぶんという考えだったからかもしれません。「トランス」というよりも「見立て」が肝心なのでしょう、

最近はそういう婿相続は少なくなっていると思います。企業の相続と家庭の相続は区別されるようになりましたから。明治以降、武家にならって男子相続を重視するようになったためもあるでしょう。他人より子孫を重視するのは近代では常識です。

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