ひねりの文化?

アクセス解析をたどって横道にそれて、シーメールさんの画像などを見てきました。2〜3年ぶりで2回目です。気づいた点をいくつか。
1、シリコンは、胸だけじゃないみたいに見えたので、検索で調べたら、日本でもそういう美容外科みたいなのがあることがわかりました。なるほど。でもすわったときに上半身の体重が全部かかる部分ですからね。そのへんがちょっと心配になりました。
2、米国サイトは、恐いお姐さんという感じの人が多いです。男女のポーズでは、側位の一種で背後から来て、上体はひねって顔は向き合うという、絵にかいたようなのが多いです。やはりあちらは古くからひねりの文化でしたからね。歩くときもからだを大きくひねります。こちらでは着物の上から幅広の帯で締めつけていた時代が長かったので、からだをひねって動くことが少なく、ああいうからだにはならなかったわけなのでしょう。男性の動きも乱暴です。のこぎりを押して使う文化のせいもあるのでしょう。
3、それから米国サイトで気になったのはイレズミの多さです。東洋の漢字をデザインしたものも多いです。このへんは松田修の本でも読まないとわかりません。
4、アジアというかタイでしょうが、少年少女のような男女がじゃれあったりしてるのは、ハードではなくて、ほのぼのと懐かしい感じがして、いいものでした。

HP表紙の写真

先週11日に83万カウントということでしたが、11日から13日まで異常にアクセスが多かったことがわかりました。また隣国あたりで画像を貼られたかと思いましたが、グーグルから「両性具有」「アンドロギュノス」での検索が多かったのです。しばらく考えましたが、あるオリンピック選手が性別再検査をされたというニュースの影響のようです。
アクセスの多かったページは、ギリシャ神話から簡単な解説を試みただけなので、これまで世界史の中でインターセクシュアルやそのほかいろいろ、どう扱われ、それぞれの人がどんな人生を歩んだかということは書いてはありません。
表紙の写真を変えてみましたが、地味でちょっと着方がだらしない感じかもしれませんね。
写真の採用の理由は、修正写真に成功したからです。だいぶ前にも一度やりましたが、顔が半分切れてしまった写真でした。同じときの別の写真から頭部を貼り付けて、接合部分はぼかしてしまうという方法です。同じカメラ位置からの別の写真でしたので、背景もつなげてみました。

日本語アクセントと作曲

作曲家が歌詞に曲を付けるときは、日本語の高低アクセントに従って、音符の高低を決めてメロディーを作るのが普通だそうです。ただしそのアクセント」は標準語のアクセントのことで、アクセントに従うのは1番の歌詞だけのようです。
「夕焼け」という歌詞ですと、尻上がりのアクセントなので、"ソドドーレ"なんていうふうになりますね。
こういうようなな制限に縛られると、自由なメロディも制限され、リズムのことも考慮されません。團伊玖磨という作曲家は、それに疑問をいだいて、方言でオペラを作曲したりしたそうです。

外国の歌というか、たとえば英語の歌は、アクセントと作曲はどんなふうになっているんでしょう。
英語は、日本語のような高低アクセントではないので、メロディは自由のはずです。でも強弱アクセントというのがあります。これはたぶん、2拍子のリズムでいうと、1拍目に言葉の強アクセントが来るような気がします。「メリーさんの羊」で、1拍目を太字で書いてみます。
  「メアリー・/ハッド・ア・/トル・/シープ」
リズムの1拍目と言葉の強アクセントが一致します。
「ロンドン橋」ですと、
  「ロンドン/ブリッジ・イズ・/フォーリン・/ダウン
3拍子の歌ですと、
  「グッド/モーニング・トゥー・/ユー
やはり1拍目が強いアクセントです。
英語には単語だけでなく文にも強弱アクセントがあることがわかります。

ところで日本語には本当に強弱アクセントは一切ないのでしょうか。
たとえば「まっ赤な」という言葉は、「っか」の部分が高いアクセントですが、「ま」のところに少し強いアクセントがあるような気がします。普通は「ま」を少し強く言うと思います。
「まっかな秋」という歌では、「まっかだな」という歌詞で始まって高低アクセントに従って作られています。これを上手でない歌手が歌うと、音程の高いところを強い声で歌い、低いところは弱い声でという単調な歌い方だったりして、「か」に強いアクセントがあるように聞えて、おかしいのです。

それと七五調の歌詞では、5拍のうち最後の5拍目が、4拍子の1拍目に来ることが多いです。日本語はもともと語尾をあいまいにごにょごにょと弱く言ったり、「てにをは」が最後に来ますからやはり語尾を弱く言う言葉なのですが、歌では間違うと強く発音してしまうこともあります。英語の歌は上の3つの例のように最後のところに強アクセントがくることが多いのですが、ここが日本語と違うところです。
(でも最近の日本の日常会話は、語尾の「てにをは」を強く言う人が増えましたけどね。)

昔の唱歌で、「蛍の光」や「故郷の空」など、外国曲に日本語の詩を付けたものは、日本語の高低アクセントとはだいぶちがうメロディーですが、そんなにおかしくもないです。「仰げば尊し」は外国曲という説もあったと思いますが、メロディーが日本語の高低アクセントに一致しているので、外国曲じゃないでしょうね(外国曲説が強いです)。

自然を身近に

ウルトラマンのシリーズについて書かれてあるページを見てきたのですが、1960年代の最初の「ウルトラマン」「ウルトラセブン」のころは、本格的なSFファンからの評価も高いようで、なるほどと思います。
70年代の「帰ってきたウルトラマン」以後は、そうではないようで、何かドラマの筋立ても変わっていったらしいです。良く言えば「人間ドラマ」風なストーリーになっていったそうで、詳細はわかりませんが、ありそうなことですね。
つまり、卑近な人間関係にばかり気を使うような子が増えていった時代ということです。そういう意識がどうにもならなくなると、70年代末には校内暴力が問題になり、80年代にはいじめ問題なども表面化してきたわけなのでしょう。
子ども時代にはもっと宇宙のことに夢中になったり、そのほか好きな趣味のことに夢中になれるのが幸福だと思います。

SFから人間ドラマへ、というのは、子どもたちの科学離れのきっかけだという人もいます。身近な生活のことばかりということでは、近代日本文学のあの私小説的世界に似てるともいえなくもありませんね。
でもそれよりもやっぱり、野菜は育てるものというより、商品として買うものにすぎないような生活で、自然が身近なものとして感じられなくなってゆく時代になってしまったのが大きいと思います。
グローバリズムの前提には、自然よりも人間を優位に置く欧米的な偏向の世界があると思いますが、東洋的な自然との共生のような生活が崩れて行くことがないと、グローバリズムも侵入できないわけなのでしょう。

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