薬とマジック

 先月ごろでしたかインフルエンザ騒動のころ、米国人は風邪をひいて薬を飲まないという話を聞きました。家でじっとして休めば良いのだそうで、薬を飲んで働きに出かけるのが現代日本人なのかもしれませんが、日本人は休む人も薬だけは飲みますし、もしかすると日本人ほど薬好きの人たちはいないのかもしれません。
 飲まずになおるなら薬とはいったい何なのでしょう。
 薬の成分表のカタカナ文字を見ながら、よくわからないけどこれは西洋医学の進歩のタマモノなんだと思っていたのですが、そうじゃないみたいですね。
 「病いは気から」といいますが、逆に、薬でなおったと思うのも「気から」だといえるかもしれません。こういうのは結局、大昔に呪術やおまじないで病気をなおした時代とたいして変りませんし、日本人の生活には現代でも古い呪的(まじかる)なものがときどき顔を見せるということなんでしょう。それじゃあもう風邪薬は飲まないようにしようと思っても、やっぱり飲まないと不安になります。これが現代にも残っている日本人的な呪的な態度なんでしょう。

 今の人は、飲まないより飲んでおいたほうが良いなんて言い訳するのかもしれませんが、それは一種のことなかれ主義にも見えますし、リスク回避主義というほうが良いのかな?、もう事が起きてるのに弁解のためのアリバイを予め作ってるだけのようにも見えます。これは余談でした。
 江戸時代の歌舞伎の女形はザクロを愛用したといいますし、最近はタイ国のほうだったか自然成分のお薬の話も聞きますし、そういうのは風邪薬とは別なんでしょうね

コミュニケーションって何?

 自分はコミュニケーション能力に自信がないと思っている人もいるかもしれないので、そうやって自分について判断してしまう前にちょっと考えてみるのはいかがでしょう。
 いわゆるコミュニケーションというのは一人では成立しませんよね。二人以上いないとダメで、つまり相互交通です。本質的にそういうものです。だから一方的に言葉をまくしたてるだけの人がコミュニケーション能力が高いかといえば、はなはだ疑問で、単なるうるさい人、人々のためには百害あって一利なし、ともいえますから、そうなるとマイナス100点、たとえあなたが0点をもらったとしても、そういう人たちよりは100点も優っているわけです。
 相互交通ですから、半分は相手のことを理解するようにつとめることが不可欠なのですが、コミュニケーションが苦手だという人の中には、じつは相手を理解しようとするのが苦手のように見える人がいますので、ここが問題になるんでしょうね。もちろんそうでない人もいます。そうでない人のばあいは、若いころそういうことで悩んでいたとしてもそのうち年齢が解決してくれます。心配はいりません。他人を理解しようと努力してきた積み重ねが人間性に厚みを増してゆくことでしょう。
 他人全般にあまり関心がない人というのは困ったものですね。そういう人で突然冗舌になる人がいますが、話をよく聞いてみるとやっぱり自分のことだけをしゃべっているようです。
 他人に関心がなくはないけど、自分を理解してもらいたいという気持ちがいつも勝ってるような人は、最近増えてるのかもしれませんね。「自分を理解してもらいたい」というのは二重の意味で間違いでしょう。1つはさっき言った相互交通の意味を忘れていること、もう1つは自分で自分を理解したつもりになっていることです。いちばんわからないのは自分のはずです。一時流行った「自己実現」とかに迷わされすぎたのかもしれないし、自己を理解してもらわないことには「スタートラインに立てない」と思いこんでいるのかもしれませんね。

はてなブックマークからの「おすすめ」

 性同一性障害という言葉がだんだんとごく普通に使われるようになってきているようで、必ずしも完全肉体改造願望ではない人たちまでふくめて、「心の問題」になってきているというわけなのかもしれません。20年くらい前のお姐さんたちが「トランスジェンダー」と言い始めたころのトランスジェンダーの意味にずいぶんと近づいているようです。20年前のお姐さんたち(?)のなかには私も入るのかもしれませんが。

 さて、ここの日記は「はてなブックマーク」に登録してありましたが、最近見たら、はてなからの「おすすめタグ」のなかに「性同一性障害」が入っていました。なるほど、機械処理で当サイトにふさわしいキーワードを提案してくれたのですね。機械も善意?なものです。トランスジェンダーという言葉を使っているので、その類義語ということなのでしょうけど、たしかに世間ではそうなふうになってきています。
 二つの言葉の意味がだんだん近づいてきて、トランスジェンダーのほうへ引き寄せられてきているようですね。

雨降りお月さんのお話

雨の夜は、お月さんも雲の陰にかくれてしまいます。
さいきん昔の童謡をスリラー話のように解釈するのが若い人たちのあいだで流行っているようです。普通の自然現象として人の死を歌にしただけでも、それ自体が生活感覚からかけはなれたことの見えるようになってしまったのかも。
「雨降りお月さん」という野口雨情の童謡は、お月さんがお嫁に行く物語を歌った童謡です。作られた当時から童謡の詩に添えられる絵は、たいていお嫁さんの頭とお月さんが重なって描かれています。http://jin3.jp/kimi/ujo-kashi.htm
 ♪雨降りお月さん、雲の陰
 ♪お嫁に行くときゃ、誰と行く?
2行目は疑問文ですが、だれに尋ねているかといえば、お月さんですよね。お嫁さんの絵は白いものを上から羽織っているものが多いですが、「雲の陰」の雲をたとえているわけであって、白装束(死装束)ではないでしょう。
 ♪一人でから傘さして行く
 ♪から傘ないときゃ、誰と行く?
お月さんは一人に決まってますよね。よく「月が笠をかぶっていると雨が降る」と言いますし、それで傘が出てくるわけです。で、月に傘がないということは、現実は既に雨が降ってるわけです。
 ♪しゃらしゃらしゃんしゃん鈴つけた
 ♪お馬に揺られて濡れてゆく
お嫁さんが馬に乗って行くというのは、大正時代の当時は消え去りつつありましたが、まだ少しは残っていた日本の風習です。最後に現実に戻るわけなのでしょう。

この詩は、もしかすると、ギリシャ神話の太陽が天馬(ペガサス)の馬車に引かれて空を渡るという話がヒントになったのかもしれませんね。お月さまにだって何か乗り物があってもいいんじゃないかしら。それはちょっと地味な普通の馬。そして馬といえばお嫁さん、というのは、江戸時代まで庶民が馬に乗るといえばおおむねお嫁に行くときくらいだったみたいだからなんでしょう。お嫁さんというのは昔は必ず泣くものでしたから、雨がぴったりくるわけです。

後半の歌詞で「急がにゃお馬よ、夜が明けよう」というのは、日が昇ったら月は姿が消えてしまって、目的地に行けなくなってしまうからです。人間なら夜中にお嫁に行くのは変ですが、お月さんは夜のうちしか行動できません。(以上がごく普通の解釈です)

月に関する昔話といえば、かぐや姫とか、月から落ちてきた水が里芋の葉っぱにたまって化粧水になるとか、女子に関する話が多いです。月が「死後の世界」だという話は近代の外国経由ではないでしょうか。

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