「家父長制」の?

ふと家父長制という言葉が気になったので、ネットを検索してみると、このページ。
http://www.netlaputa.ne.jp/~eonw/sign/sign53.html(神名龍子)
批判の語句などが厳しすぎる感じもしなくはないのですが、おおむねこの通りなんだろうと思います。
付け加えるとしたら、少々枝葉的なことではありますが、次の2点でしょう。

1つは社会集団組織の西洋と日本の違いです。
世間で言われている「家父長制」には、意味の違う2種類があって、1つは西洋の近代社会成立以前の「家父長制」で、もう1つは日本の明治〜戦前のころの民法などの特徴を「家父長制」ととらえた人たちがいたことだそうですが、では日本の近代以前はどんなだったかということです。
西洋のような専制君主のような家父長制ではなかったのですが、要するに、同族集団が殿様のような象徴的な存在の人をトップに据えて、数人で側近政治をやってたようなパターンじゃないでしょうか。一人の独裁ではないのでこの形態は近代社会でも否定されませんでした。庶民レベルでも、名主(なぬし)というのは語源も"同じ苗字の集団の長"という意味なので、日本人社会は上も下も同じような「象徴的存在と側近政治」だったように見えます。
(それで将軍さまから嬶天下まで説明できると思いますが、一方で職人芸の伝承のようなスタイルが社会全体にあって、合理的でない面も多かったのでしょうが、同性どうしの厳しさなどもあったわけです)

2つめは、日本では中世以前においても夫婦で財産は別々だったといった男女平等風なことがなぜ可能だったかについての部分です。
そのページにこんなことが書かれていました……「私の考えでは、これはおそらくは日本の武士が、元をただせば開墾農民だったからからだと思っている。元々が夫婦で力を合わせて起こした家であれば、役割分担はあっても、どちらが上ということはない。」
「私の考えでは」と強調しているのは異論を承知で書かれたのでしょう。
もっと簡単な説明があります。つまり夫婦は同居する習慣がなかったですし(これは重要みたいですよ)、先祖から相続した田畑や財産も当然夫婦別々で、年貢を納める先の領主も別々になることがあったみたいです。財産については鎌倉時代初期の法律(御成敗式目)に女子による相続を前提にした条項があったと思います。別の家に住んでたのですから、別々なのは当たり前です。

とはいいつつ、社会の主要な役割を担ったのは古代から男性たちでした。
なぜそうなのか、それなりに考えてみますと……
「社会」が成立したときからそうだったのでしょうね。ただしこの「社会」とは近代人が考える普遍的な社会……「人間は社会的存在である」というときの「社会」、時には個人と対立し、個人の上位にある「社会」のこと……ではなくて、原始時代の部族集団どうしが対立して成立した社会……部族どうしの利害対立の調整機構としての社会のことです。
部族や一族の集団の中では、日本では女子の役割のほうが重かったかもしれません。けれど部族と部族の共存のための調停役が男子でしたので、調停に失敗して戦争になったり、いろんな対立を経て国家ができたのでしょう。そうした部族どうしの統合の歴史の歩みとともに、人間にとっての一族集団の価値がどんどん下がってしまって女子が目立たなくなり、利害対立の調整機構ばかりが注目されるようになっていったために、男子ばかりが目立って行ったということではないでしょうか。卑弥呼のような占いの価値も下がりました。それが今までいわれている「歴史」だと思いますが、将来はどうあるべきなのでしょうね。

Trackbacks

コメント

< 影は何でできてる? | top | 男性体形の無理 >