歩き方

日本人は、ひざを伸ばさないで歩く人が多いそうですが、歩くときの腕の振り方も、ひじを曲げて、ほとんどひじから先だけ振っているような人もいます。
そういう歩き方の男性は綺麗ではないのですが、女性については見づらくない人もいます。ひじを曲げるだけでなく手首もシナを付けるような感じで少し曲げて……。それから腕は後ろに引いたとき外側に広がって、前では内側に狭まっておなかの前あたり。

トランスさんたちは背中をすっきり見せようとして、肩を少し後ろに引くような姿勢を保ってますから、そういう腕の振り方は難しいですね。ひじから先が太いというのもあるかも。一日や二日真似してみても、いかにも筋肉を使って動かしているような感じで腕が疲れてしまいます。

そんなわけで、これまで通り、ひざもひじもきちんと伸ばして、小学生の行進のときのような歩き方になるわけです。中性的といえば中性的なのかも。でも、バッグや荷物を持って腕を振らないようにしたほうが、自然な歩き方になるような気もします。

サッチャン

童謡の『サッチャン』(阪田寛夫作詞)の三番の歌詞です。
 さっちゃんがね
 遠くへ行っちゃうって ほんとかな
 だけど ちっちゃいから
 ぼくのこと 忘れてしまうだろ
 さびしいな さっちゃん

「遠くへいっちゃう」ことの意味について、もしかして天国のことなのかもと思ったこともあったのですが、「ぼくのこと 忘れてしまうだろ」というのは、生きているから忘れることができるのであって、やっぱり引っ越しの歌なんだろうなと思います。

作曲家の宮川彬良さんが「深読み」だといって、「ぼくのこと 忘れてしまうだろ」のところは、逆に言えば「ぼくだけは君のことを忘れない」という意味になるので、天国の歌にもとれるようなお話。ついぐっときてしまいました。
なるほどね♪ 男の子に感情移入してみたわけですね。

サッチャンがもう少し大きくなってたら、「あなたのことは一生忘れない」と言ってくれたかもしれませんね。それが言えなかったのは、ちっちゃかったから。
考えてみれば、「あなたのことを忘れない」という言葉が使えることは、とても幸せなことなのですね。

そして大事なことは、引っ越しだとか、人の死だとか、世の中にはどうすることもできない悲しい別れがあるということです。そういうときは、ただ泣くしかありません。泣けることもまた幸せなことなのでしょう。
ときどき背負いきれないほどの悲しみが背中に重くのしかかってくるときがあって、そういうときは、少しづつその重みに慣れていくしかないんだと、あるおばあちゃんが言っていました。

(サッチャンの深読みについては、学校の怪談のようになっているのもあるようですが、そういうのは詩的な世界から、遠くへいっちゃってますね)

オーガズムの幻

(少しアダルトな内容を含みます)
ドライオーガズムということがよく言われるようなので、あちこち検索してみたのですが、盛り上がっているのは、一般男性(いわゆるノンケ)の人たちが多いようですね。

いろいろなページでよく見かける表現は、「女性のオーガズムの快感は男性の10倍以上」だとか、「20倍」とかもっと大きな数字のところもありましたが、そんな言葉が気になりました。

以前Wikipediaの「オーガズム」のページを見たとき、「オーガズムの直前に寂寞感(男性)や恐怖感(女性)を覚える場合もあるとされる。」 と書かれてあるのが目にとまりました。
http://ja.wikipedia.org/...
私自身の感覚については、「寂寞感」というものでは全然なくて、「どうなっちゃうんだろう」というふうな少し「恐怖感」に近いものなので、妙に自分のジェンダー?に納得してたのです。

あらためてそのページを見たら、右側にイメージのグラフが載っています。そのイメージによれば、女性のほうが高揚感が遅く来て、頂点の高さは少し高く、長さは2〜3倍持続することになります。
「10倍」という数字はどこから来たのでしょうか。

1970年代に見た"How To Sex"とか"性生活の知恵"とかいう本にも、似たようなグラフが載ってたことを思い出しました。当時のグラフでは、高揚感は男女ほぼ同時にやって来て、頂点は男性のほうが高く、持続時間や余韻は女性のほうが長いというものでした。「男女同時」というのは理想形態なのかもしれませんが、頂点は男性のほうが高いと言われていたのです。事実、腹上死といった事件が、しばしば巷の男性たちの話題になっていました。

今から思えば、当時の腹上死の話も、お酒の席などで少しオーバーに脚色された話題だったのだと思います。最近の「10倍」とか「20倍」とかいう話も同じでしょう。
どちらも、その時代の男性たちが夢見た幻なのではないかと思います。
腹上死こそ「男子の本懐」であるといった当時のジョークは、一面では男性たちが自信をもっていた時代の産物なのでしょうし、「10倍」とか「20倍」という話は、まさにその自信が揺らいでる証拠です。

私と似た立場のトランスジェンダーさんは、オーガズムは今の20〜30秒ほどで充分だと思っているのではないかと思います。あの感覚が「30分以上継続」といわれたら、本気で恐怖をおぼえてしまいます。

許されるウソ?

1月に今年のテーマは「涙」とも書きましたが、素敵な「ウソ」についてさまざまな面から考えてみたいとも思っています。
忘れな草紙に書いた、落語の「長屋の花見」とか、「金庫破りのジミー」の話みたいなウソのことです。
そのほか、ある若い女の子が恋人にしてあげようとしたことが、うまくいかなくて泣き出してしまったようなお話を聞きましたが、ウソ泣きかもしれませんけど、恋人はそんな彼女に心を打たれてしまったとか、悪い話でもありません。

ブログを書いていて、つい特定の人のページの批判めいたことを書いてしまったりしたとき、人によっては書いた本人があとで鬱状態になってしまうことがあります。そういうケースでは、対象を新聞で読んだとか雑誌で読んだとか、すりかえてしまうと楽だと思いますね。こういうのも「許されるウソ」だと思います。
それから、書くのに恥ずかしいようなことは、架空の友人とか「ある若い女の子が」なんて書けば、書けてしまうことがありますね^^;。

消えた半ズボン

ふと半ズボンの男の子がいなくなったのはいつからなんだろうと思って、Wikipediaの半ズボンの項目を見たら、詳しく書いてありました。

半ズボンの流行は「1960年代から90年代前半までの関東以南の小学生以下の男の子」ということですから、広く普及したのは戦後のことで、そんなに古くからでもないみたいです。60年代のテレビの少年ドラマや皇太子様も普及に一役買ったようなお話。

なくなった理由は、90年代の「海外トレンドへの追随」とありますが、国際グローバル化がこういう面まで入り込んだわけなのですね。この「グローバル」とは要するにアメリカのことといっていいでしょう。明治のころ最初に半ズボンが輸入されたときは、古いヨーロッパから来たらしいです。

Wikipediaにハイソックスのことも書かれてありましたが、男女兼用のアツギのスクールタイツもありましたね。アツギとはメーカーの名前で、冬でも半ズボンだった都市部の男の子たちの必須アイテムでした。

トランスジェンダー


私がトランスジェンダーという言葉を初めて意識したのは、1995年の末ごろでした。
あるお姐さんの手紙に、自分はトランスジェンダーであると書かれてありました。その人は医学の専門家でもあり、Qで始まる名前の雑誌に用語解説も書かれたとのことでした。彼女のトランスは、主として自宅内で、たまに旅先などで、今風に言えばパートタイムのトランスジェンダーということになるのでしょう。

彼女の手紙には、私のことを女性ホルモンを服用しているのだろうと決めて書かれてある部分があったので、そうではないことを返事に書きました。彼女もそれは同じでしょう。けれど私はあまり勉強をしてなかったので、自分もトランスジェンダーかもしれないとは、書きませんでした。

トランスジェンダーとは、もともとは、女性ホルモンすら手を出さずに、そのままでジェンダー(性役割)のトランスを望む人のことで、肉体の変化まで望む人はトランスセクシャルと言っていたのです。けれど1995年の段階で、私と同年代の人には女性ホルモンが徐々に広まって行ったことは彼女の手紙からも受け取れます。
性別意識はそのままで服装だけトランスしたい人のことは、トランスベスタイトというそうですが、以上の3つをまとめてトランスジェンダーと総称することもあったようで、そのことを「広義のトランスジェンダー」なんて言う人もありました。
(ジェンダーとは人間どうしの関係における性役割とか性別意識という意味。セクシャルとは生物学的な性別のこと。ベスタイトとは服装の意味です)

その後、何年かして性同一性障害(GID)という言葉が使われ出したのですが、トランスセクシャルとほとんど意味が重なっていて、ほぼ同じ意味で使う人が多かったのです。けれど最近になって誰もが性同一性障害のことを語るようになり、日本語でセクシャルといったときの語感が好まれないせいか、トランスセクシャルはあまり使われなくなったようです。そのかわり言葉の響きの良い「トランスジェンダー」を使う人が増えているようです。

そんなわけで「トランスジェンダー」の意味も、巷では3通りになってるようなのです。
つまり、

1、肉体改造はあまり望まない本来の意味のトランスジェンダー。
2、医療による肉体改造を必須と考えるトランスセクシャルの代替語から広まった「トランスジェンダー」。
3、トランスベスタイト(またはそのうちの衣服フェティシズムが動機になっている傾向を除いたもの)まで含めた広義のトランスジェンダー。

マイ・デジカメ・ヒストリー2

5/24に初期のデジカメのことを書きましたが、今日はそのつづきで、マイ・デジカメ・ヒストリーその2です。
1999年ころから、130万画素(1280×960)のデジカメが普及し始めました。このくらいになってくると、画像ソフトで簡単な明るさや色の補正をするだけで、まあまあの画像になりました。フィルムの時代の終りも間近です。

オリンパスの130万画素のカメラを買ったのですが、比較的小型でスライド式のレンズカバーもついていて便利でした。2003年まで使ってました。
このカメラの欠点は、レンズがカメラの端に付いてることでした。単三電池4本が右端に収まって、そこに重心があるので、右手で持てば片手で撮影できて便利なのですが、レンズは左端で、ストロボが中ほどにあるので、カメラを縦に構えると、レンズが上でストロボが右下になります。
上の画像をよく見るとストロボの影が人物などの左上に出ています。この写真は高いアングルから撮ったので、あごも細めでまあまあなのですが、普通のアングルになるとストロボが下から当りますので、あごがたるんだ写真ばかりになってしまいました。

クククの鳩子

昨日の新聞で、手塚るみ子さん、赤塚りえ子さん、水木悦子さんの三人の女性の座談会を見ました(朝日新聞)。
みなさんご存じの苗字ですよね、有名な漫画家の娘さんたちです。
子どものころはお父さんは忙しくてほとんど会話はなかったけれど、成人して初めて父の偉大さに感心したといったお話でした。

水木さんは「ゲゲゲの娘」、赤塚さんは「レレレの娘」、手塚さんは「ラララの娘」と紹介されてました。なるほど面白いですね。最近「ゲゲゲの女房」という水木夫人の本もベストセラーになってるみたいです。

鳩子もそんな調子の呼び名を考えてみたのですが、やっぱり
「クククの鳩子」でしょうか ^.^;;
自分の笑い声は聞いたことはありませんけど。
皆さんも考えてみてはいかがですか?

蛇足 ゲゲゲとは「ゲゲゲの鬼太郎」、レレレは「天才バカボン」のレレレのおじさん、ラララは「鉄腕アトム」のアニメ主題歌の中の一節のことだと思います。(7/7)

日本を蝕む投資家社会のこと

「消費者の信頼を裏切る結果になったことをお詫びします」という感じの言葉は、このごろよく耳にします。食品偽装が明るみになったときの言葉ですよね。でもなんとなく違和感を感じていました。だってそんなに信頼も期待もしてないですから。
そんなに信頼されてると考えてることこそ企業の傲慢さの現われなのかもと思っていたのですが、最近ちょっと見方が変りました。それはつまり
日本人全体が何をするにも投資家的な態度しかとらなくなっているので、そういう今の日本人を意識した発言だといったほうがいいみたいですね。「投資家の信頼を裏切った」ことを恐れているのですね。

日本人全体が投資家になったなんて、ちょっと話が難しくなりそうですけど……。
でも思い当るふしはたくさんあるでしょう。
この前の総選挙では低収入のフリーターたちが小泉自民党にあれだけ投票したのは、「何かやってくれそうだから」だというのですが、これも投資的行為だとみることができます。ホリエモンも人気がありました。
学校で先生たちへ言いたい放題のクレーマーの親たちについては、消費社会でお客様は神様というか、1円でもお金を払う消費者が無条件にエライというような風潮のせいではないかという人もいたのですが、でもああいうクレーマーは消費者のレベルを通り越していますよね。株主や総会屋の態度だといったほうがぴったりくるでしょう。
勝ち組とか負け組とかいうのも、現時点での持ち株の値段のことをいってるみたいです。
「夢」という甘い言葉を使いながら、その実際は投資の勧誘みたいだったりしますよね。

トランスジェンダーの問題でいえば、少し古い世代の人たちが、悩みに悩み、考えに考えぬいたあげくに、とうとう越えることのできなかった薬物やら外科手術という一線を、若い人たちはいとも簡単に踏み越えます。これも自分への投資のようなそういった社会的背景のおかげなんでしょう。一般の投資家たちは、失敗したときの話は他人にはぜんぜんしなくて、うまくいったときのことだけを話すのが常ですので、医療的な方向へ行ってる人は、よくよく気をつけたほうが良いと思います。

「消費社会」を通り越して「投資家社会」になってることが、日本を蝕んでる最大の原因なのかもしれないので、あとでもう少し続きを書いてみたいですね。

幸福なトランス

子どものころテレビの再放送か何かで見た「少年探偵団」(江戸川乱歩原作)というドラマで、小林少年が少女に"変身"してしまうシーンがあったのです。あとから知った知識によると「屋根裏の散歩者」というシリーズらしいです。
どのようにして少女になったかというと、カメラが切り替わって、別の女優さんが写るというものでした。小林少年は少年というより立派な青年の人が演じていて、あの俳優さんはハーフの人らしいですね(これもあとで人から聞きました)。
で、そのあとに追跡シーンがあったのですが、小林少年は男優に戻って、黒いタイツにスポーツウェアのようなシャツも黒、からだのラインがそのまま出る黒ずくめのいでたちでした。あれはなりふりかまわず追っかけて行くとき、中途半端な服装の状態になってしまったことを、ああいうかたちで表現したのかもしれませんね。生放送のドラマだったらしいです。

最近のトランスの「当事者」が出てくるようなドラマは、又聞きによると、普遍性のようなものが表現できているとは思えないので、あまり好きではありませんね。泣きが入ったりうらみつらみみたいな、質の良くない演歌と通じるものがあるように見えてきます。あえて普遍性のようなものを探せば「不幸な社会的弱者」がいるということだけで、それ以上のことを表現しようという意識は製作者自身にはないのでしょう。お茶の間向けのテレビだからという言い訳もあるのかもしれませんが、ここはひとつ発想を変えて、
トランスという存在自体が幸福である、という発想が必要になってくるのではないでしょうか。

| top |