月夜の影踏み

鳩子の子どものころの記憶にある、影踏みの遊びは、二人くらいで向き合って、影を踏まれないようにからだをかわしてよけながら、ときにはフェイントをかけたりして、相手のすきをついて相手の影を踏む、というものでした。「影踏み鬼」といわれるような、数人で鬼ごっこのように鬼が入れ替わって行くというのではありませんでした。

影踏みについて、古い本から引用した説明があります。
http://kodomo-kai.net/kids/modules/silver6/index.php?id=9

「月夜の遊戯にして、月の光にて地上に印する影を互いに踏み合うにて、我が影は人に踏まれざるようになし、人の影を踏まんと競い廻るなり。このとき児童は手を打ちつつ互いに左の如く唄う。
 影やどうろく神(じん)、十三夜の牡丹餅、サア踏んで見ィしゃいナ。」

影踏みは「月夜の遊戯」だと書かれています。神秘的なイメージがわいてきます。

「どうろくじん」とは道祖神のことですが、道祖神の影のように、十三夜のぼた餅が道に落ちてるみたいに真っ黒に見える、というような意味になるでしょうか。
昔話で、道に落ちてたぼた餅を拾って食べようとしたら、ぼた餅ではなくて馬の(ふん)だったという笑い話があります。「牡丹餅、サア踏んで見ィ」というのは、運が悪ければ馬の(ふん)、それでよければこの黒い影を踏んでみな、という意味になって、遊びのスリルも満点です。

大人たちは、夜道で自分の影を踏まれることを不吉だと考えていたようです。「魂を抜かれる」とも言いました。影は、その人のもう一つの魂なのでしょう。分身でもあります。

男の子が女の子の影を踏むと、女の子の魂を手に入れることができるのでしょうか。それはわかりません。
それとも、男の子の影は、男の子の中に潜む女の子の心なのかもしれません。絶対に取られたくないと思う子もいるでしょう。

影を踏まれないように、30センチくらいからだを反らしてよけたつもりでも、影は20センチくらいしか動かなくて踏まれてしまうこともありました。自分の意志通りには動かないような、やっぱり何か別の種類の魂だからなのかも

影踏み歌

いろいろ考えて^^; この日記ページの新しいタイトルは、『鳩子・影踏み歌』とすることにしました。御意見をいただいたかたには色々ありがとうございました。

子どものころの遊びには歌がついてるものがありますが、手鞠歌、縄とび歌など、いくつかおぼえています。調べてみると、お手玉歌、羽根つき歌、あやとり歌、その他たくさんあるみたいです。あるページにもいろいろ載っていました。「かげふみ歌」は載っていなかったのですが、広い日本のどこかには、あるのかもしれませんね。

そこで検索で探してみました。

http://www1.seaple.icc.ne.jp/takahaci/ "海の公園たより"さんの「俳句」のページ「2004年1月」に
> 冬晴れや影踏み歌のリフレイン
というのがありました。いい俳句ですね。この人なかなか良いと思います。この俳句では、実際に子供たちの「影踏み歌」を耳で聞いてというより、イメージとして「影踏み歌」という言葉を使ってらっしゃるような感じではあります。

それから、野口雨情の童謡に「影踏み」というのが見つかりました。ちょっと引用してみます。
  影踏み   野口雨情
お出し お月さん 影法師お出し 出そか影法師 踏まそか とんと
お出し 影法師  影法師お出し 出した影法師 踏んだか とんと
お出し お月さん 影法師お出し お出し影法師 踏むからお出し

近代の詩人の童謡ではなくて、もっと古いわらべうたとしての「影踏み歌」はあるのでしょうか。ネット検索では、上に書いたことしかわかりませんので、もっと専門的な本を調べないといけないのかも。

1993年

1993年といえば、ウインドウズ3.1。パソコンで写真をスキャナして、色調整をしたり、そんな夢のようなことができるようになりました。今とくらべれば性能はまだ低かったですけどね。

そのころの鳩子はといえば、だんだん気持ちが楽になってきたときでした。それなりに肩肘はって生きてきたようなところもありましたから。
それ以前は慢性的な肩凝りがとてもひどくて、朝おきたときから肩から背中のあたりがとても痛かったり、でもそういうのもいつのまにか消えていました。
エリザベスさんとも距離をおいて、鳩子としてはあまり人と会うことをしなくなったのです。そうするとトランスさんたちの悩みというのが、あまりこちらに感染してこないですから、気楽だったのかもしれませんね。人との交流は、たまに男性や(純)女性と会う程度になりました。
ところで最近の肩凝りはやっぱり年齢のせいなんでしょうね^^;

「影踏鳩子星」という新タイトルはどうでしょう

ちょっとからくち

少し前の週刊文春で読んだのですが、自衛隊員どうしのイジメでたくさん自殺者が出ているそうです。イジメの中には、勤務交替のときに機器の調整をデタラメにいじって引き継がせて、次の人が困るのを見て喜んでいるというイジメも多いらしい話。そういう記事を読んだ人なら、隊員たちがイジメに夢中になっているうちに衝突事故を起こしてしまう可能性があることは、すぐわかると思いますよね。そんな体勢で有事に対応できるのかという問題もありますね。

影踏み、影法師

子どものころ、日なたでお友だちと遊んだとき、地面に映ったお友だちの影を横から見ると、その子の影は、本人とは違って、とても長く大きく、遠くまで伸びて見えました。

でも自分の影は、輪郭は鏡を見ているようにとてもリアルで、私にそっくり。

とても不思議に思っていました。

自分の影だけが、他の子と違っているのは何故?
いつも私のことをじっと見ているような。
影法師さん、何か私にお話したいことでもあるの?
……きっとあるのでしょうね。
いつか私にも、その声が聞えるときがあるのでしょう。

子どものころは影踏みでよく遊びましたよね。
ここの日記のタイトルを、変更したいような気もするのですが、「かげふみ」にちなんだ名前がいいかなと思っています。

セルフに夢中 1992年

16年前の1992年は、バブル崩壊の年だったのですが、その年の後半ごろから、セルフ写真に、はまってしまいました。毎週フィルム1本を使い切るほどたくさん撮り続けていると、カメラのファインダを見なくても、カメラとの位置関係だけで、写真の仕上がりがイメージできるようになって、それで枚数もどんどん増えてくるわけなのです。

そのころは体重が少し増え始めたころで、各サイズ8-7-9(×10)の大台に達して(体重も6×10の大台でしたけど)、息を吸い込むと洗濯板状だった場所に谷間が作れてしまったり……。自然と幸福感が感じられた日々だったような気がします。個人的には肉体的な充足感?のような90年代というか、でも体重が増えたのは中年の始まりだったわけで、やがて老化現象が忍び寄って来るわけなのです。誰でもいつかはそういう時期が来るのでしょうね。
そんなわけで下着姿の写真もたくさん撮ったのですが、そういうのはほとんど他人の目には触れられずに終わりそうです。

誰が風を見たでしょう

「誰が風を見たでしょう。ぼくもあなたも見やしない」
という童謡の歌があるのですが、あまり知られていないかもしれません。
詩は西条八十だとずっと思っていたのですが、オリジナルではなく外国の詩の「訳詞」みたいです。

詩の続きは、
「けれど木の葉をふるわせて、風は通り過ぎてゆく」
となります。見えないはずの風なのに、木の葉の揺れを見てはじめて風の存在に気づくというような……、ちょっと理屈っぽい詩ではあるのですが、子どものころは、そういう理屈以上の何かを、その詩の中に感じていたようにと思います。

木の枝が揺れるときは、枝はバネのように揺り返して、しかも一本一本の枝はバネの強さも違いますし、傾きやすい向きも違いますから、たくさんの枝がとても複雑な動きをします。まるで生きてるみたいに。もちろん植物としては生きてるのですが、動物のように、妖怪のように見えてくるから不思議です。

木は、自分で風を呼び込んで、自分自身で揺れることもあるのかもしれません。
でもそれは、あなたも私も、誰も見ていないときの出来事なのかもしれません。

今日の風は北風なので、ちょっと寒いです。

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