「がんばろう」と「祈り」

日本の最近のヒット曲は、歌詞の内容はとにかく「がんばろう、がんばろう」という内容しか伝わってこないのでつまらないという意見も多いことでしょう。なぜそうなってしまったのか、よくわかりませんが、最近ちょっと思っていたことを書いてみます。

もう20年以上も前に聞いた話なのですが、あるプロ野球のオーナーが試合を観戦に来て、試合後に選手を激励しようと、主砲のアメリカ人選手と面会したそうです。オーナーは帰りぎわにその選手に「これからもぜひがんばってください」と言ったのですが、通訳の人が「がんばって」のところを「ドゥー・ユア・ベスト」と直訳してしまい、選手は急に不機嫌な態度になって「自分はどんなときでも常にベストを尽くしている、そんなことを他人から言われる筋合いはない」ということだったそうです。日本語の「がんばって」は「グッド・ラック」と通訳すれば良かったわけなのですね。

たぶん今の売れてる曲の「がんばろう」も「グッド・ラック」の意味なんでしょう。「いつかきっと……」「どうにかなるさ」「ケセラセラ」……、心情的には昔の歌と変わりないんだと思います。だったらそのような言葉にすれば、もっとイメージが広がると思うのですが、言いにくい時代なのでしょうか。
「グッドラック」ですから、祈りのことです。「がんばろう」というのは、祈りの歌の変種というわけだったのでしょうね。歌はもともと、素朴な祈りの言葉から発生したものだと思うので、とても理にかなっていると思うのです。でも何か違いますね。

ある若い人の詩とブログ(日記)をみたとき、不思議なことに気づきました。ブログでは短く自分の意見も書いてあって、そんな中に詩的な表現もあったのです。でも詩は日常的な描写ばかりでプライベートな日記そのものにみえました。詩が日記になってしまって、日記にときどき詩が入ってるような感じ。日記は自由に書くのでたまに面白いですが、詩は何か固定観念にとらわれているようにみえました。

小学校の国語の授業で子どもに感じたままを書きなさいという教え方は、問題が多いのはほんとうでしょうね。感じたままとは、内面描写なのです。「抒情」オンリーの日本の詩歌の伝統が問題だという指摘もありますが、それよりも内面描写とは、自分を客観視できて初めて可能なのです。日本人はそれが苦手だったので、風景描写の中で抒情を表現してきたのでしょう。でも明治のころの「抒情」とは、あの幕末の志士たちの妙なエクスタシーのことを言ってたのかもしれませんね。それはアララギさんたちと直結する傾向です。ウィキペディアのアララギをみたら「写実的、生活密着的歌風」と書いてありましたが、書いた人は皮肉のつもりなのかしら

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