敗者を讃える

NHKで加山雄三特集をやってました。中学生のころの写真がなかなかの美少年。昭和20年代のゆったりとしたズボンに、ハイウエストのウエストがきゅっと細くて……。当時の男性ズボンについては、忘れな草紙の「マッカーサーのベルト」で書きました。その後、同じ時代の吉行淳之介のハイウエストのズボンの写真を見たことがありますが、やっぱり中学生の美少年にはかなわないでしょう。

さて番組で、加山雄三の『海 その愛』という歌の、「海に抱かれて 男ならば たとえ破れても もえる夢を持とう」(岩谷時子・作詞)という歌詞に、最近にはないものを少し感じたわけです。「たとえ破れても」といったリスクのことについてです。
最近の歌は、とにかく「夢をめざしてがんばろう」というだけで、その夢というのもとても不確かで、とにかく永遠にガンバルしかないようなものになってしまいました。どれだけ近づけたかもわからないような「自己実現」の環状線に乗せられてぐるぐるまわっているだけのような……。失敗やリスクのことは、フタをかぶせて見ないようにしてばかり。

「望みが奪われても」とか以前のフォークソングでは、男性の歌は厳しい現実に挑むものも多かったのです。
そして、その結果はどうあれ、挑戦した男たちの勇敢さは、彼らが年老いても、永久に周囲からの尊敬の対象となったのです(ここが重要です)。「老兵は死なず(?)」というわけなのでしょう。
一仕事終わったら田舎に小さな家を買って恋人と暮らそうという古いストーリーの中には、そういうチャレンジと老後のことが前提になっていたわけです。

でも今はそういうことがなくなりました。勇気があっても結果がダメだった人は尊敬されません。なぜそうなったのかはよく分析してみないとわからないのですが、でも敗者をたたえるということは、とても大切なことだと思いました。高校野球の季節でもありますし。

「翼」のイメージ

むかしのNHK人形劇の「ひょっこりひょうたん島」には、いろんな劇中歌がありましたけど、『もしも僕の背中に翼があったらなぁ』という歌が良かったという声はよく聞きます。歌っていたのは博士(中山千夏)でした。この歌は、大事なことを急いで知らせてあげたいという場面で歌われてたみたいです。

赤い鳥というグループの『翼をください』という歌もありました。歌詞はちょっと漠然とした感じですが、グループ名も「鳥」ということで……。

空を飛ぶ歌といえば、荒井由実の『ひこうき雲』ですよね。歌詞には「翼」という言葉はありませんが、私が「翼」という言葉からイメージする一番の歌です。深夜に一人ひっそりと聴いていたら、怖くなってきたのをおぼえてます。あの歌はどう聴いても、高い窓から飛びおりて死んだ人のことを歌った歌ですし、でも綺麗な詩で歌うところが良いのでしょう。そうでなきゃ浮かばれませんからね。

私も若くして死んだ人のことを詩に書いたことがありますが、ちょうどお盆の季節ですし、ちょっと思い出してみました。

青い鳥

メーテルリンクの『青い鳥』も思い出深い本です。
物語の結末については、みんなよく知っていると思います。しあわせの青い鳥は、ふだん家で飼っている鳥のことで、いちばん身近な存在に気づいていなかっただけというお話。

チルチルとミチルが青い鳥を探す旅の途中に、いろんな登場人物が出てきます。「母」ではなく「母の愛」とか。「母の愛」とは存在としては抽象的なものなのですが、それが人格をもって登場人物としてふるまいます。こういうところにとても魅力が感じられる作品です。あるときチルチルとミチルに話しかける声がして、誰かと聞けば、自分は「母の愛」だと答えたりします。戯曲の形式なので、こういうのでも不自然ではないわけです。
日本人はこういう抽象的な思考が苦手なせいか、日本の物語にはあまりないパターンですね。(生前の霊、死後の霊ならありますが)

母の愛とは母の全てではないのかもしれないのですが、だとすると登場人物のすべてが表面に表れない別の面をもっていると考えることもできます。チルチルやミチルでさえそうかもしれないし、平凡な私たちでさえ、表面に出せないものはたくさんあると思います。
トランスジェンダーさんでは、異なる性別の心を複数もっていたりして、それで自問自答したりするのはよくあることです。
「母の愛」という形で現れたのは、子どもに対してだからなのでしょう。人は相手によって違う面が出ることはよくありますし、相手の求めることにこたえたり、相手の不足を補おうとして自分の意外な面に気づくこともあります。「自己」とはそういうものです。
少し前に書いたスタートラインの話ではありませんが、まずスタートしてみないことには自分のこともわからないわけでしょう。「私」とは歩きはじめてからの私の歩きぶりそのもののことだからです。
だからチルチルとミチルの旅は、隣の芝生がよく見えたからふらふら出かけたわけではなくて、さまざまな世界、死者の国までも見て歩くわけですよね。子どものころから「あの世」に思いをはせることは大事なことなんだと思います。

ジュンメとジンケン

トランスではない女性のことを「純女」というそうです。読み方はジュンジョでなくジュンメ。そのいわれは、戦後まもなく安価な化学繊維が普及しはじめたころに、従来からの木綿の生地を「純綿(じゅんめん)」と言ったことから、それにシャレてジュンメと言ったのだそうです。
「化学繊維」と書きましたが、日常語では、ジンケンと言うことが多かったみたいです。ジンケンとは「人絹」と書きますが、人工の絹という意味なんでしょう。ジンケンといえばもう一つ人権というのがありますね。

むかしマルクスの哲学を勉強していた人に聞いた話によると、人権とは市民国家(ブルジョア国家)が保障する市民的権利(ブルジョア的権利)にすぎないものだそうです。その人はもっと先の理想社会の話をしてくれましたが、主義はどうあれ、こういう理想を語る人が今は少なくなりましたね。目先の話ばかりが横行しています。
さて、人権とは、政治的で法的な範囲のものですから、範囲を広げすぎて考えると泥沼におちいると思います。自然の草や木や石や、あらゆるものに精霊が宿るというのはアニミズムの考えで、そういうのはあると思いますが、古い習慣や日常生活のあらゆるところに人権を見てしまうのは(比喩的な話は別として)、ある種のアニミズムというか、「人権」への呪物崇拝あるいは物神崇拝になるのかも。呪物崇拝とは英語でいうとフェティシズムです。別のところで「法律フェチ」なんて書いてしまったことがありますが、真意はこんなところです。
人権フェチはともかく、フェティシズムは悪いものではありませんが、それぞれ個人の趣味の問題であって、オタクの人はそのことをよく理解していると思いますが、他人に強制するものではないわけです。

風を感じて

立秋になりましたが、暑い日が続きます。
暑いのと寒いのとどっちが良いかというテーマは難しい問題です。

鳩子は暑いときはいつも顔がほてっているような感じで、からだもだるいです。
冬の寒いときはどうかというと、皮膚がつらいかもしれませんね。お出かけして写真でも撮ろうというときは、つい薄着になってしまって、寒くてしかたありません。そういうときは夏がいいです。

うちの猫は今、床にへばりついて寝ています。床との密着面積を多くして体温を逃がしているのでしょう。それが部屋の隅の風通しの悪いところなのですね。人間は風にあたって汗を蒸発させて体温調節をするのでしたが、猫はそうじゃないみたいです。人間は風を感じることができて、しあわせなのかも。

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