口笛の思い出

子どものころは、口笛を吹く子は不良になると思っていました。そのように教えられたからなのでしょうけど、だから口笛は今も吹けません。
たぶん口笛は大昔から山の精霊を呼び出すための手段だったので、日常の生活では吹いてはならないものとされ、そういうタブーの歴史の名残りなのかもしれません。

アニメドラマの「アルプスの少女ハイジ」で「口笛はなぜ遠くまで聞えるの」と歌われたのは、山の生活が背景にあったからなのでしょう(西洋も東洋も似ていたということ?)。有名な国文学者の小説に口笛に関してのものがありましたが、タブーへの挑戦の意識もあったのかも。

小学生のときに姉に呼ばれて行ってみたら、姉が突然口笛で童謡のフレーズを吹いて聞かせたのです。私はびっくりして、どうすれば吹けるようになるのか聞いてみたのですが、姉はいたずらっぽく微笑むだけでした。大人たちの前では吹けないけれど、子どもたち二人きりのときにちょっと吹いて見せたのでしょう。姉の口笛を聞いたのはそれ一回きり。私も口をとがらせて吹く練習をしてみたのですが、ひゅーひゅーと風の音がするだけでした。

男女の需要と供給

男と女の関係も需要と供給のバランスがあるのでしょうから、このごろのトランス業界はどうなのでしょうか。GIDブームで女が過剰になってるでしょうし、特に若い人ですよね、若い人が増えれば年配男性も若い子のほうに目が行くのはしかたないでしょう。

一般の男女の人口の比率は、今は50歳過ぎで男女等しくなるそうで、それ以前の若い世代では男子がやや多めらしいです。もともと出生のときは男子が5%くらい多めらしく、その後、若死にする人が男子にややか偏っているということなんでしょうね。50代で男女等しくなるそうです。

江戸時代の江戸の町では、男のほうが圧倒的に多かったそうで、男が結婚できないのは当たり前、長屋では女房の貸し借りまであったようなお話。だから子どもが生れて父親が誰なのかうるさいことはあまり言わなかったらしいです。
現代はプチ江戸時代に近づくのかというと、そうじゃないでしょうね。男が多かったのは地方から職を求めて都市に移住した人が多かったせいですから、今は女性もたくさん移住します。今の東京は若い男女の人口の差がどんどん等しくなってると思います。結婚しない人が増えたのは、需要と供給のバランスとは違う問題なのでしょう。
でも都会で男女の数の差がなくなってくると、激しい失恋というのも少なくなってくるかもしれません。それで流行歌でも失恋の歌がはやらなくなったのかも? ま、それだけが理由ではないでしょうけど

太りはじめ

10年くらい前に、急に太ったような丸い顔の写真が増えたときがありました。たしかに急に太ったようなのですが、それでも太りはじめのころは、ウエストあたりはそんなでもないような写真もあるのです。
もしかすると、急に付いてしまった皮下脂肪がまだよく定まらずに、ウエストニッパー効果で移動しやすかった?せいなのかもしれません。なんとなくそう思います。もしこのときの矯正効果を現在までずっと維持できていたら、だいぶ違っていたのかも。

その後は肌のかぶれなどのために矯正下着は着けないことが多くなりました。最近たまに着けたときに感じることは、歩き方が変わったというか、歩くときに腰をひねるようになったみたいで、ニッパーがひねりの力に逆らおうとするのを感じます。腰をひねるというのは、右足を出したときに右の腰骨も少し前に出るような動きのことです。
両脚だけの動きではなくなったということは、つまり筋肉が衰えたということなのでしょう。

理解のために

まりっぺさんのブログに書かれてあった大事なことのいくつかに、

> 自分の眼で見て自分の言葉で語る
> とにかくやってみる
> 五感を通して世界を理解する
> 明確でない事柄も大事

というのがありました。
それらの基底を流れるものは「理解する(理解しあう)」ということだと思うのですが、たとえば、ちっぽけな引き出しの中から貧しい種類の処方箋をすぐに出してくるよりも、とにかく理解しようとすることが大事。これはカウンセリングではよくいわれることでもあります。
ある男性脳女性脳判定サイトによると、理解を優先するのが女性脳、すぐにアドバイスをしたがるのが男性脳と書いてありましたが、それはちょっと疑わしいでしょう。男性脳だというのではなく、すぐに結果を出さなければならないような経済発展型の合理脳または強迫観念でしかないと思います。それは一見明確でなくすぐにはわからないことを切り捨ててしまう脳です。

ですから、わからないことがあることは、理解のさまたげになるどころか、深い理解に至るためには絶対に欠かせないことになります。同時に、わからない部分があっても、とにかくやってみること。これは実践による検証のことでしょう。
理解と不明確とやってみることは一つながりのものなんでしょう。

文章に書くときは、妙な言い訳のような長い前置きは止めるべきでしょうね。言い訳とはつまり、自分はこのことを語る資格があるのかどうかとか、えらそうなことをいうわけじゃないけれどとかいったことから始まって、語ることになった誰それさんとのいきさつの話だけで大部分を占めているようなものは、最悪としかいいようがありません。

★2012.5 「五感を通して世界を理解する」というのも大事でしょうね。ついでに第六感とかも。

進歩について

ある人の本、というか内田樹という人の『下流志向』という本によると、最近の子どもたちが社会との最初の関係をもつのは、消費者としての関係だというお話。コンビニで買い物をするときに(同じ100円を支払うときに)、子どもも大人も消費者としてまったく同等の待遇を受けることが、幼い子どもにとっては全能感に等しい快感になり、幼くして消費者としてのアイデンティティを確立して、それがその後の人生をも決めてしまうこともあるのだとか。若い人がお金にこだわるのは、拝金主義だからなのではなく、消費活動こそが自己の開放になるためだからなんだそうです。
学校においては金銭に代わって苦役を差し出すことによって等価交換を求めるのだそうです。賢い消費者であるためには、幼い自分にあらかじめその価値の全体がわからない勉強に対しては、勉強しない(苦役をしない)ことによって、損をするかもしれないリスクを賢く回避するのだそうです。それで日本人の学力も低下するわけです。
消費社会の消費生活の論理がそんなところまで支配してしまうので、知的な進歩というものも必要は感じないわけなのでしょう。

経済や物質文明の進歩は、今の日本はもう望むべきではないと思います。そういったことを最優先する考えは、捨てるべきです。しかし知性や精神的なものは、人や自然を、そして世の中や歴史を理解するために、もっともっと成長しなければならないはずです。このへんの兼ね合いのことを考えないといけないのでしょうね。

政治は利害対立の当面の妥協のための方便であって、精神的とはいいがたいものです。権利を主張しあわないで全てが平和であることが理想なのですから、権利が増えることが進歩だというのはどこか倒錯しています(倒錯性権利フェチ?)。
けれどそういう理想や現実の論から離れて、少しでも値切って得をしようという消費活動として政治運動を考えてしまうのは、とても寂しいことだとおもうわけなんですよね。

今年の桜

たまには撮れたて写真、……ということで、散らずに残っていた今年の桜でした。

スカートはギャザーが2段になってるのかと思ったら、そうではなくて、長いスカートの裾を着物を着るときのように中でたくしあげる感じで内側に縫い付けてありました。こういうのだったら自分でも直して作れるかも?(柄によってはしっくりこないかもしれませんが)

自転車に乗って

散歩をしていると、ときどき自転車のおばさんが追い越してゆくことがあります。自転車に乗って上体を大きく左右に揺らしながら、危なっかしい運転の女性が、たまにいらっしゃいます。ずいぶん無理な動きをするものだと思いながら、その女性の足もとを見ると、足先はペダルの外側の端いっぱいのところを踏んで、ひざはぴったり内側に寄せる感じで……、つまり完全な内股の状態で、ペダルを垂直方向ではなく、外側方向に斜めに踏んでいました。斜め方向にばかり力が働くので、上体も左右に大きく揺れるわけです。そんな女性がスカートの裾を気にして片手でひざのあたりを押さえて、片手でハンドル操作をしている姿を見ると、倒れないことを祈るばかりです。
通学自転車の女子中学生を見ていると、足先はペダルの中ほどをしっかり踏んで、ひさもまっすぐ垂直に伸びて、無駄のない動きでした。毎日乗っているせいなのでしょう。

学生のころ、都会育ちの女の子の友だちがまったく自転車に乗れないと聞いて、驚いたことがあります。自転車に乗れない人は女性のほうが多いのでしょう。運動神経の問題というより、母親がスカートの裾を気にしたりすると女の子は自転車に乗りたいという意欲が湧かないかも。

鳩子は小学校3年生のころ子供用自転車を買ってもらって、すぐに乗れるようになったのです。でも子供用自転車を買ってもらえる子は少なくて、多くの子どもたちは、小さいからだで大人用の自転車を乗りこなしてました。大人用なのでサドルに腰掛けたら足が届きませんから、立ったような体勢でペダルをこぐわけです。普通は婦人用自転車です。けれど中には、お父さんの自転車の逆三角形のフレーム(▽)の中に、左横から右足を入れて右のペダルを踏み、からだをくねらせて左右のハンドルをしっかり持って、なんていう子もいました。まだまだたくましい子も多かった時代でした。

お手玉のこと

だいぶまえに「子どものころの遊び」と題して、あやとりが好きだったことを書いたことがあります。お手玉はちょっと苦手でした。平衡感覚のせいかもと書いたのですが、少し違うかもしれません。
http://www.ja-tajima.or.jp/happy/05_02re/edition.htm「お手玉の効用」という解説によると、
「お手玉をすると、まず、脳の活性化、集中力、瞬発力、姿勢もよくなり、何よりも笑顔が出ます。笑いの中枢は右脳にあり、医学的には、鎮痛効果と免疫力を高めることがわかっています。また、適度な運動で体を温めることが、疲労を解消し、脳の血流を増します。お手玉のリズム感は、脳内のセロトニンを上昇させ、心を安定させることができ、前頭葉の訓練になる演舞などは、痴呆・老化防止、機能回復、ストレス解消等に効果があります」
……だそうです。少し練習してみましょうか。

平衡感覚といえば、からだのバランスをとるのは、鳩子は子どものころからまあまあだったと思います。運動は全般的に苦手でしたが、自転車はすぐ乗れたし、スケートもまあまあ。ハイヒールも好きです。
お手玉は、反復練習を続けてゆく根気が必要なのかもしれません。

ウソとマコト

(4/13)落語の「長屋の花見」では、タクアンのことを卵焼きというのは、一種のウソなのでした。ウソだということはわかっていても、せいいっぱいみんなでウソを楽しんでいるわけです。
「許されるウソ」というのもあるわけです。

ガンという病気を本人に告知しないで、本人も看病する家族も、もうじき癒るという前提で、毎日を前向きに生きてゆくというケースもあります。看病する家族は最初からウソと知っているわけですが、本人はしばらくたってから、それとなく気づいて、ある段階からそれが確信に変わってしまっても、家族のことを思って、本人自ら同じウソの世界に生きるようになるといったケースです。

金庫破りのジミーが、鍵をあけてしまっても、周囲は深い愛情をもって今まで通りのウソの世界でジミーを受け入れようとしました。

哀れなウソというのもあります。自分のことを良く見せようとしてウソをついて、そのウソがばれそうになるとまたウソをつく。そうやってウソの上塗りを続けているうちに、けっきょく自分を破滅の道に追い込んでしまうという少女の話が、夢野久作の小説にあったのですが、似たような実話を聞いたこともあります。そういうウソは上昇志向ということではなく、何か心の病によるものなのでしょう。

卵焼きの夢

スポーツといえば思い出すのは、
1960年代の日本の子どもたちが好きだったものといえば、
「巨人・大鵬・卵焼き」
野球の巨人と相撲の大鵬で、3つのうち2つがスポーツに関することでした。
卵焼きはまだ、ちょっぴりぜいたく品だった時代です。小学生の遠足や運動会のときのお弁当のおかずの定番でした。

何年か前にテレビコマーシャルで、南伸坊という大きなおにぎりのような顔のおじさんが、チキンラーメンにお湯をかけて生卵を載せておいしそうに食べてました。1960年代当時、日清のチキンラーメンは30円。卵は15円くらいでしょうか。合計45円。週刊誌が30円の時代ですから、今なら10倍。インスタントラーメンと生卵で、今の450円くらいに相当します。

「長屋の花見」という落語では、卵焼きが買えないので、黄色い色が似ているタクアンを卵焼きと思って長屋のみんなで仲良く分けて大事そうに食べてました。「そっちの卵焼きのシッポじゃねぇほうを一切れ食いてえ」というのが八っつぁんのセリフ。「やっぱりカマボコは練馬に限らぁ」とも言ってました(大根の漬け物がカマボコでした)。卵焼きが「夢」だった時代なのでしょう。

コロッケが5円だったのは1950年代でしょうか。60年代では特売日にならないと5円にはならなかったように思います。60年代はアンパンも牛乳も15円くらいだったような……。(4/12)

哲学的に

竹内まりやの出演したNHKの番組を見ましたが、ご本人の映像をあんなにじっくり見たのは初めてでした。52歳だそうですが、あたしもあのくらい綺麗でスリムだったら堂々と年齢を公表できることでしょう。……それにしてもスリムでした。
ニューアルバム「デニム」は5月23日発売予定。プロデューサーの山下氏によると、50代になると作品も哲学的になるのだそうです。そういう点なら鳩子のサイトもだんだん近づけるかもしれませんね。少しはですけど

悪い夢を見た

漫画家の松本零士氏があるニューミュージック歌手と、歌詞のオリジナル性のことでもめているそうですが、「夢は時間を裏切らない」とかいう歌詞でした。
何十年か前の流行歌の歌詞では、よく使われる言葉に「港」「霧」「涙」とか、そんなのが多かったらしいのですが、今では「夢」「時」「裏切り」という言葉はどれもかなり上位にランキングされていると思います。そういう今風のありきたりの言葉を知らず知らずのうちに松本氏は使っていたということなのでしょうね。

「夢」という言葉は、最近では政治家が選挙民向けに使っていることを知りました。何か税金で買える夢みたいなので、その結果はおそろしい悪夢になってしまうのかもしれません。

夢は、儚さや哀しみとともにあったり、あるいは「夢と冒険」というセットのものであったと思います。
いつから変になってしまったかというと、やっぱり「自分探し」とか「自己実現」とかいう言葉が流行りだしてからでしょうか。

トランス巡歴のすすめ

『ためらいの倫理学』(内田樹著・角川文庫)というタイトルにひかれて読んでみました。タイトルにひかれてというのは、一歩手前のためらいのような感覚が私は好きだからです。14番目の月のことかもしれません。でも著者のニュアンスはちょっと違ったみたいです。
面白い本ではあると思います。

「越境・他者・言語」という章がありました。
トランスジェンダーとは性別の越境であるとかよく言われてましたよね。
「古典的な意味でのボーダーラインは消滅しつつある、ソ連の崩壊……云々」。……そういう意味だったのですか。ここはちょっとがっかりかも?。トランスジェンダーの問題は有史以来の問題ですから、そういうことなら安易に「性別の越境」という表現はしないほうが良かったりして。

その章の中に「越境と巡歴」というエッセイがあります。
「どんな冒険も結局いつかは故郷に帰り、既存の話法によって語られるにすぎない」もの、それを「巡歴」と表現しています。
それに対して「越境」とは、故郷を捨てることだそうです。自分を律して、一直線に越えていくというか、到達することは困難だとわかっていても、その地点を夢見ることができない者には耐えられない道だそうです。
トランスセクシャルさんの中には、こういう傾向もあるのかもしれませんね。むかし柔道一直線というマンガもありましたけど。

でもやはり巡歴の旅に出るのが良いと思います。たまに故郷に戻っても良いと思いますし、戻ることのできない巡歴だってあります。それは「越境」とも違って、「さすらい」と言うのかもしれませんが。
出かけるときの「ためらい」ということなら、私はもう出かけてしまっているので、それはもうありません。あらゆる既存の話法を感じ取って、いつのまにかこんなに来ていたんだねとか、なぜ出かけたんだろうかって、旅先から見えたことをインターネットから送信しましょう。

「既存の話法」ということなら、私のあまり好きでないいくつかの語法があります。
「(既存のもの)のコラージュにすぎない」
「ファンタジーでしかない」
「○○神話の崩壊」
このような既存の語法を使っていては、新しいものは見えてこないかもしれなくて。コラージュやファンタジーや神話的なものの向こうに、ほんとうのものが見えるのではと思います。作曲家の人がよく言うには、もうまったく新しいメロディーの創造はありえない、既存のものの組み合わせのようなことしかできないだろうというの。

でもこの本はいろんな内容があってけっこう面白いかもしれません。

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