失踪ストーリーのお話

失踪とか、蒸発とか、そういうことを考えると、胸がとどきどきしてしまいます。
これまでの世間のいろんなしがらみから離れて、知らない町で別の名前で生きて行くことができたら、なんて、つい胸がわくわくしてしまいます。
実際にはできなくても、せめて何か短いストーリーに書ければ・・・。
でも長い小説としてに書くのはたいへんでしょう。いろいろと調べていって、いろんな状況を考えると、フルタイムの生活ってたいへんだろうなとか、自分自身の現実のものとして考えてしまうことになるので、そういうリアルさの追求は、たぶん楽しいものではなくなってしまうのかもしれません。短く書くのがいいんでしょうね。
短くても、舞台設定をいろんな町やいろんな国にしたり、恋人になる男性も、そりゃあいろんなタイプの男性のほうが楽しいでしょうから、そうやって何種類ものストーリーができあがることでしょう。そしたら、あたしもいくつものドラマのヒロインになれるわけだし・・・・、なんて、こんなことを書いてるときがいちばん楽しいのかもしれませんね。たとえ短くてもストーリーを考えるのは今はちょっとかったるいです。

秋の気配

朝晩はめっきり涼しくなってきて、もうじき秋が来るんでしょう。
でも、からだは、とてもだるいような、夏の感覚のままなので、ちぐはぐな感じ。
そんなときは、どこかの高原にでも出かければ、秋を感じることができるのでしょうか。
今のまま、しばらくは、夏の名残りのけだるさに、ひたり続けるのもいいのかも。

写真は橋のそばでの後ろ姿シリーズになりました。

うしろ姿

後ろ姿の写真も、好きなので、ときどき撮ります。

普段見ることのないアングルなので、自分じゃないみたいに見えることもありますが、でもやっぱり自分。というか、不思議な自分なのですね。

後ろに視線を感じるときは、意識して両肩を後ろに引きぎみになります。
肩幅を狭く見せるためなのですが、この写真は、まあまあですね。
普段からこういう姿勢を心がけているといいのかもしれません。
肩幅というよりも、左右のわきの下の幅、つまり背中の幅ですね、背中が狭く見えると良いと思います。

橋を渡ろうかどうか

お盆休みというのは、子どものころの夏休みと違って、とても短くて、お墓参りはいいとしても、いろんなおつきあいがあったりすると、けっきょく、休みなのに休めないなんていうことになる人もいるでしょう。

写真日記なので、今日の写真です。

お手ごろな公園には、よく人工の小川があって、さらさら水が流れて、たいてい橋が架かっています。
箱庭のような橋なので、別にどうっていうことはないのですが、本物の大きな川に架かっている大きな橋は、歩いて渡るのがとても恐かった思い出があります。

橋の向こうには、恐い人たちが住んでいて、小さい子どもは食べられてしまうかも。
浅川マキという人の昔の歌で「赤い橋」というのも、そんな感じの歌。異人さんに連れられて行っちゃった女の子のことを歌った童謡の「赤い靴」も「赤」でした。

でも橋を渡れば、別の自分になれるような、そんな詩を書いたこともありました。

ある通販の広告を見て

胸板の話の続きみたいなものですけど……
2、3日前に新聞の通販の広告で、「ウエストニッパー付きガードル」というのを見ました。おばさま体形の人の使用前+使用後の横からの写真が載ってたのですが、それを見て、やっぱり、と思いました。
おなかは確かに引っ込んでいますが、胸板は厚くなってるんですものね。
若いころは、おばさまたちで胸板の厚い人が多いのは何故なのか、不思議に思ってたのですが、ある時期から、たぶんガードルの愛用者なのだろうと思うようになりました。そうなんでしょうね。

100円ショップでロート(漏斗)を見たので、1つ買ってみました。子どものころ見た雑誌広告の、バストを大きくする器具みたいなことができないかと思ったのです。家に帰って、ロートの細い口をガムテープで電気掃除機にくっつけて吸引してみましたが……、どうってことなかったですね(毎日続けたわけではありませんけど)。
でも、わきの下やまわりの肉をロートの中へ集めたときは、Aカップ以上だったかも?。

萩原朔太郎の「恋を恋する人」


月に吠える
萩原朔太郎の詩集『月に吠える』(大正6年)から

 恋を恋する人

わたしはくちびるにべにをぬって、
あたらしい白樺の幹に接吻した、
よしんば私が美男であらうとも、
わたしの胸にはごむまりのやうな乳房がない、
わたしの皮膚からはきめのこまかい粉おしろいのにほひがしない、
わたしはしなびきった薄命男だ、
ああ、なんといふいぢらしい男だ、
けふのかぐはしい初夏の野原で、
きらきらする木立の中で、
手には空色の手ぶくろをすっぽりとはめてみた、
腰にはこるせっとのやうなものをはめてみた、
襟には襟おしろいのやうなものをぬりつけた、
かうしてひっそりとしなをつくりながら、
わたしは娘たちのするやうに、
こころもちくびをかしげて、
あたらしい白樺の幹に接吻した、
くちびるにばらいろのべにをぬって、
まっしろの高い樹木にすがりついた。

昨日コメントしていただいた島崎藤村の「初恋」とは違った趣向の恋愛詩はないかしらと、探してみたら、たまたま目にとまりました。
すごいですよね…… ^^;
MtFトランスジェンダーの中には、男性が好きというより、男性に愛されている自分自身への陶酔感を告白する人も多いですし、一人で自分の姿を意識するだけで酔ってしまうような人もいます。そういう意味で「恋を恋する人」なのかも? でもそういうことにかんしては程度の差はありますが一般女性にも見られることのような気がします。

詩の内容は、ちょっと情けないイメージを感じてしまうのがイマイチかも……。
朔太郎のこの詩集は、この詩ともう一つの詩が原因で発禁処分になったとか。
(アンダーラインの部分は原文では傍点です)

性同一性障害と更年期障害

ちょっと英語の勉強です。

英語で Menopausal Disorder が更年期障害。
Gender Identity Disorder が性同一性障害です。
Disorder は不調とか疾患とかいう意味で、障害とも訳されるわけです。

心身障害者は、mentally and physically handicapped person。
handicapped が「ハンディのある」という意味で、Disorder とは全然別の言葉です。

つまり性同一性障害者は障害者ではないのですが、訳語がどちらも同じ「障害」なので、いろいろ誤解があるようです。
そのため、性同一性障害の人は、なぜかカワイソウな人と思われがちですが、更年期障害のオバサンはそういうことがないです。

フリー百科事典のウィキペディアの「性同一性障害」という項目はとても詳しく書いてありますが、「更年期障害」は現在のところ項目だけで何も書かれていません。若い人たちの手で始まったサイトなのでしょう。

恋愛詩

ある有名な作家の国語教科書批判のエッセイ(※)を読んでたら、小学生に詩を書かせるのはやめるべきだ、ということのほかに、中学校の国語教科書に恋愛詩をのせるべきだ、と書いてありました。恋する気持ちを考えたり、言葉の表現力のすばらしさを学んだり、その通りなんじゃないかと思います。(※ 丸谷才一『日本語のために』新潮文庫)
そのエッセイ集は1974年の初版ですから、30年以上前のものになります。

当時の中学生は恋愛詩は知らなくても、学校以外のところで、歌謡曲などの恋の歌はたくさん知っていました。だからそれでまにあいました。でも最近は、なぜか恋の歌というのはなくなってしまったように感じます。最近の歌の歌詞といえば「傷ついたこともあったけど、がんばって行こう」というふうな内容しかなく、ガンバレ・ニッポンじゃないけれどスポーツの応援みたいな言葉を繰り返しているだけに聞こえます。
恋の歌を知らないというのは、とても不幸なことではないでしょうか。

そのエッセイの最後のほうに、「性教育が真面目に取沙汰されてゐる御時世に、これは何といふ間抜けな……」と書かれていたのですが、そういえば、
性教育については、数年前から、一部の熱心な教師によって「行き過ぎ」ではないかと言われるようなことが行われてニュースになったりしました。そんな御時世に、恋愛詩のほうは、どうなっているのかしら、と思ったのです。あのエッセイから30年もたっているのですから、少しは改善されているとは思うのですが……。でも「性教育」ほど熱心な扱いはされていないような気もして、不安にかられます。
恋愛が何かもよくわからない子どもに、堂々と性教育がほどこされているのでしょうか。
もしそういう傾向があるなら、恋愛に対して消極的な若者が増えてしまったのは、当然だということになります。
恋愛の多くは、妊娠が可能な異性愛ですから、恋愛教育は少子化対策にもなるかもしれません。

好きな恋の詩や歌をいくつもあげられる私は、しあわせなのかも。


水着の写真(古い写真)

昔の写真というのは、いいものですよね。

昨日のつづきですが、ウエストニッパーをあまり着けないようになってから、たまに着けてみると、最近歩くときに腰のひねりが加わるようになっているみたいなので、ひねりに対する抵抗感を感じてしまいます。ということは、若いころはあまりひねりが入らなかったということなんでしょう。今はからだの重くなったぶんだけ、バランスを保つために、筋肉の動きが微妙に複雑になったのかも。ひねりの動きがあったほうが女性らしく見えることでしょうけど。
ひねりというのは、つまり左足を前に出したときに、骨盤の正面が少し右方向に向くような感じです。

夏やせ?

こういう写真を見ると、まだそんなに太ってはいないようにも見えます。

でも同じ日に真横からのポーズで撮った写真があるのですが、ちょっと失敗の部類の写真かも。だんだんオバサンになってくると、なぜか胸板の厚さが気になってきます。幅はそんなでもないのですが、厚みは昔とは目に見えて違いが出てしまいます。

最近若干のダイエットに成功したのですが、なんていうんでしょうか、体重が減ったわりには引きしまった感じがでないような気がします。ウエストニッパーとかは最近はあまり着けることが少ないですけど。


杉浦日向子さんの本から……

先月、"江戸文化研究家"の杉浦日向子さんの一周忌の少し前に、新潮文庫から新しい本が3冊出たので、買ってみました。『ごくらくちんみ』『お江戸でござる』『4時のおやつ』の3冊です。

3冊のどれだったかあいまいなのですが、50代?くらいの女性の人の解説がついていて、最近の道端にしゃがみこんでいる若者たちの、何か大きなことをめざすのでもなく、ただみんなでのんびりしている感じは、もしかすると江戸時代の庶民の感覚と同じようなものではないかとか、それにくらべると自分たちは何ごともスピーディーで無駄がなく見え、会話でもなんでも一つのことに何でもかんでも詰め込んでしまって、いつも焦って暮らしているようで、彼らがうらやましい、といった感じのことを書いていました。(実際はもっと違うニュアンスや事例だったかも)

私もだんだんそういう年代に近いでしょうから、だんだん焦り出しているようなところがありますね。何か大事なことをし忘れたまま、今の年齢になってしまったように思えて……。
最近あるftmの若い人に書いたメールは、内容がまとまらないままたくさん詰め込みすぎで、あれではあまり理解してもらえないだろうと、反省しています。



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