言葉とは通じないものかも

3/7 の「右脳と左脳、男性の危機?」という記事で書いた「男性の言語表現」のつづきみたいになりますが、

いわゆる社会的なコミュニケーションの手段としての言語表現がお上手だからといって、魅力のある人だとはかぎらないわけです。むしろ逆のケースのほうが多いと思います。

ある詩人の言葉に、「言葉というのは通じないものなんだ。それでも自分は詩を書きつづける……」というのがありました。
けれど、通じなくても、どこか遠くで何か響きあうこともあるのではとは思います。

いわゆる社会的なコミュニケーションが下手な人は、世の中にはたくさんいましたし、昔はその程度のことで悩む人はなかったのだろうと思います。落語に出てくる長屋の熊さんや八っつぁんたちがそうでした。長屋や地域社会では価値観を共有しあって、それぞれの足りないところは補って暮らしていたのでしょう。でも今はちょっと難しい時代になってしまったのかもしれません。

いわゆるコミュニケーションが下手な人は、そのぶんだけ孤独を感じることが多いのでしょう。孤独に耐えること、そして孤独ではない別のものを感じるようにすること。どうしたらそういうふうになれるでしょうね。

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コメント

鳩子 : 2006年3月16日 02:39

察してあげること
熊さんや八つぁんたちのまわりには、足りない言葉を察してあげるやさしい人たちがたくさんいましたし、お互いにそうしていました。
察してあげる、ということは、現代でも大切なことなんだと思います。けれど、察してあげるには、お互いに何か共有している心情や価値観などが不可欠です。正反対の価値観の人の気持ちはとても理解できるものではありません。
となると問題は価値観の質ということになるのでしょう。少なくとも人類共通の人間らしい心は、知識としておぼえるというのでなく、より深く心にきざんでおくことが第一でしょうし、それだけで足りるわけではないのですけど。

メギドの丘公園 : 2006年4月9日 12:06


コモンローとかコモンセンスとかを全て言葉にして書いたりしたら、無粋きわまりなくなって、とても詩になんかなりませんね。
現代の日本人は、行間を読むとか作者が敢えて書かなかった言葉を味わうといったおくゆかしさが崩壊しつつあるように思えます。
ハリウッド映画の見すぎなんでしょうか。
新聞のテレビ欄のドラマはタイトルなんだか、内容紹介なんだか解からない文章になってますね。
私の日記もよく嫌われますが、みんなに解かってもらおうとする方が傲慢なんでしょうね。
先日もちょっとへこみました。

鳩子 : 2006年4月9日 12:33

行間を読む
詩や文学とは別に、ふだんの日常生活で「行間を読む」ことは、どちらかというと「格下あるいは同格の人」の意見をよく聞くということじゃないかと思います。
そういう人が少なくなって、せいぜい意見を聞いたとしてもそれは「ガス抜き」と称するものであって、とにかくみんながみんな中身がないのに「上」ばっかりみて暮らしているような人たちが増えました。「競争社会」「格差社会」そのものなんだと思います。

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