春のときめき


ちょっとしたお出かけで、出かけるときでも、胸をときめかせていたころがありました。
まして季節が春めいてくるころだと、なおさらです。
歩いていても、輝かしいばかりの光。何かこれから素敵なことがおこるような予感。

それがこのごろは、やっとほっとする時間がとれたとか、心が安らいで、うんぬんとか、それはそれでいいのでしょうけど、何かもの足らない感じ。

ある人がいうには、「心のやすらぎを感じる」というのは、それは精神的な高いレベルの境地なのだろうとか、そんな話もありましたけど、
そういう精神的境地の話よりも、もう一度、ときめいてみたいですよね

高石ともやの歌を古いテープで聞きました

古いカセットテープで、高石ともやの歌、3曲を聞きました。昔のラジオからの録音で、タイトルがわかりません。でも今はインターネットで歌詞の一部を検索すればわかるんですね。

1つめの歌は「生きている鳥たちが生きて飛び回る空を、あなたに残しておいてやれるだろうか、父さんは」という歌詞でこれで1番全部です。調べたら、作者は笠木透という人、「私の子どもたちへ」というタイトルです。自分の子どもに対して「あなた」と呼ぶのが新鮮ですし、良い歌だと思います。

2つめは、カントリー風の曲で「私を待つ人がいる」という歌詞があって、調べたらタイトルもそのままでした。アメリカの曲に高石さんの作詞。
3つめもカントリーで「待つ人もいないふるさとに帰る」という歌詞、「ふるさとの風」というタイトルで、これもアメリカの曲にご本人の作詞です。
夢破れて故郷へ帰るという歌は、アメリカ民謡の一つのパターンなのでしょう。さみしい歌ではなくて、懐かしくて楽しい歌になっています。

今CDで入手可能なのを調べたら1970年ごろのフォークアルバムだけでした。3つの歌はそれよりあとの時代のものなので、今はなかなか売ってないみたいです。ところで70年ごろのフォークの復刻CDを売ってるっていうことは、それを買って聞いてるおじさまがたくさんいるということですよね。青春の歌だったんでしょうね。

今年の春物スーツ

今年の春物のスーツ、襟が丸みをおびた柔らかいラインになっているのが多いみたいです。
11号サイズですが、ちょっとこのモデルさんはダイエットが必要かも。
まだ寒いので、うえすとにっぱーのところがかゆくなったりして、はずしたあとの写真ですけどね。ちょっとあたまが切れてます。

先月買ったのはジーンズをつぎはぎしたようなノースリーブのミニのワンピースで、よく見たら9号だったので着れませんでした。デザインがつぎはぎなので生地をつぎはぎしてもいいんでしょうけどね。

そういえばもうバレンタインなんですね

ためいき

さいきん買うスカートはウエストがゴムになっているのが多いような気がします。たしかにそれならまちがいはないのでしょうけど……、
それはともかく、最近着るものにこまってしまうようなことがあります。若いころは何も考えずに着たいと思ったものを買って着て、それがまあまあ似合ってたわけです。さいきんは年相応ということも考えなければならないし、かといってあんまりとしよりじみたものも変ですし、いろいろ考えてしまうわけです。年相応でカジュアルなものというのは、むつかしいのかもしれません。ちょっとお金がかかっても良いものを買わないといけないのかも。ちょっとためいき

やさしさに包まれる日

旧題「オクテの未来」
吉行淳之介のエッセイで、男性が一生のあいだにおこなうセックスの回数は皆平等で数が決まっているのではないかという話がありました。だとするとオクテで始めが遅かった人は、高齢になっても元気で、喜ばしいことでしょう。

話は違いますが、トランスのばあいのオクテですと、一生うろうろしなきゃならないようなところもあるのかも。
若いころから男性として社会に出たりとすると、ガールフレンドもできてしまいます。それで20代のころ初体験もあったりで、でもセックスってこんな味気ないものなのかしらと思ったりして、年月が過ぎて、30代になってひょんなことから女性として男性と初体験したりします。そして何度めかに気持ちいいという感覚を感じてしまったりします。

行動的な性格ではないので自分は思慮深いほうなのだろう、知性派なのだろうと思ってきたのが、からだの感覚という否定しがたい事実の前に、それまでの自分が崩壊してしまうような感じになってしまいます。思慮深いというよりも、優柔不断なために初体験もここまで遅くなってしまったわけなのですが、すぐに40代になって、もう後戻りできないような社会生活の中にいることに気づきます。

けっきょく今できることは、若き日の迷いを一つ一つ惜しむことなく思い出してあげて、今にやさしく包み込んであげること。そして今の迷いも、いつかそういうやさしさに包まれる日がきっと来ることを信じて、毎日をすごすしかないのかも。

トランスレーション

ときどき翻訳プログラムを使ったりします。翻訳のことを英語でトランスレーション(translation)というそうですが、トランスジェンダーというときのトランスと語源は同じなのでしょう。

英会話を勉強している人も多いのでしょう。ある人が言うには、英語を学ぶ日本人は英米の生活や文化もよく勉強して、でも彼らは英米人になりきろうというのだろうか、英語で日本の文化を説明できなくて良いのだろうかと言うのですが、なるほど、あちらの人が日本人から聞きたいのは日本の文化のことらしいです。自国語や自国の文化の理解がなければ異文化に対する理解も浅いものとなってしまうかもしれませんしね。

トランスジェンダーの人の場合も、望みの性の特性を身につけようと、ひたすら努力する毎日なのかもしれませんが、元の性のことも考えておきたいと思うようになりました。望みの性の立場から振り返って見るというふうにもできるかもしれません。でも男ってなに、女ってなに、という話は面白いときもありますが、わからなくなってくるときもあるわけなんですよね

ながら族

職人さんや仕事をしている男の人の中には、脇から誰かが話しかけると、仕事の手が止まってしまう人がいます。話しかけたほうはちょっと申し訳ないように思ったりもします。集中して仕事をする男性にはそういう人が多いらしいです。
女性たちは、電気釜のスイッチを入れながらお鍋でことこと煮物をして、もう一つのお鍋はおみおつけの出しを取っていてまな板の上では具に入れる野菜をトントン刻んでいる、というくらいは当たり前のことです。
ラジオを聞きながら受験勉強をしたりする若者のことを「ながら族」と言った時代がありました。大人たちは本当に勉強しているのか疑ったらしいのです。今の若者はそれが当たり前になりました。
多数の意見を聞きながらものごとを調整する仕事は、ながら族的な能力が必要なのかも。現代では逆に、情報やら意見やらが多すぎて振り回されてしまう若者が増えてるのかもしれませんけど・・・。
トランスする人が自分の思い描く性別になりきってしまうのは男性的な集中力のたまものなのかどうか?

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