どこかで逢ったような

理想的な恋愛とは、相手との親密な関係が、どちらか一人の死ぬまで続くということなのでしょうか? よくわからないところがあります。
実際には人間は、複数回の恋愛をする人が多いわけです。最初の恋愛は予行演習みたいなもので、人の恋愛は恋愛進化論的にハッテンして行くというものなのでしょうか。人によっては最初の恋愛に燃えつきてしまって、二度目の恋愛はまたたくまに人生の墓場のような状態におちいってしまったという人もいるかもしれませんが、ちょっと話は違うかも。

進化論や発展史観は、一つ間違えば失敗史観のまま終わりかねないようなところがありますよね。

春に花が咲いて、蜜蜂がやってきて、毎年季節が繰り返します。人の一生の存在の中にも、どこかにめぐる季節のような懐かしい繰り返しを感じることができれば、どんなに幸せなことでしょう。小動物のように人生が5年くらいしかなかったなら、小さな愛も大きな恋愛です。
悲しかった別れも、裏切りも、もしかすると失敗の恋愛ではなかったかもしれません。そんなふうに見方を変えられる糸口が見つかったら、幸せです。

初対面でいきなり「どこかでお逢いしませんでしたか?」というのも困りますが、
どこかで逢ったような恋というのは、ほんとうは悪くないと思います。

ジェンダー(性役割)をトランス(転換)する人の場合も、人生の最後におけるジェンダーのありかたがその人の本質であり、その人の人生の目的だということになるのでしょうか? そうとは限りません。人間は神の唯一の失敗作だと言った文学者がいたそうですが、失敗なのは、生まれたときの性別だけのことではないのでしょう。
50歳で亡くなった人が、もし長生きしてたら、52歳でトランスしてたかもしれません。
トランスして行くプロセスの中にも、螺旋のように最初に戻ったりすることが起こることを楽しめたほうが幸せのように思います。

蛇足ですが、ドイツ語やフランス語では、季節はみんな男性名詞なのだそうですが、四季を男女で分担するのはどうでしょう。
冬と春は女性、夏と秋は男性……というのは、東洋の考えで、
女(冬=水、春=木) 男(夏=火、秋=金)と見たわけです。

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コメント

両国みちる : 2006年10月18日 04:01


陰と陽ですね。

陰極まれば陽極まり、陽極まれば陰極まる。
全ては渾然一体、陰と陽は善悪でも優劣でもなし。

そう考えると刹那の輝きが増すように思われます。

鳩子 : 2006年10月18日 21:33

一日おきの国
こちらへは初めまして。西洋に追いつけ追い越せでやってきた日本人は、あらゆる生活場面で、効率や上昇やらの目でしかものを見れなくなってしまっているのではないか、という趣旨だったのですが、
陰陽の話も面白いですね。
江戸時代の文献で1ヶ月のうち15日は女、15日は男で生活した人の話がありますが、一年のうちということなら、冬と春が女がよいかもというわけだったのですが、サイクルの長さは人それぞれ、両方がだぶっていてもいいのかなとも考えたりです。「一日おきの国」という詩を書いたことがありました。
http://hatopia.webcrow.jp/poem/p05.htm
書き込みのときはURLをちょっと書いていただけるといいかもしれません。

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