姫百合の恋

ミクシのコミュニティを検索したら、「百合な短歌」というテーマで、こんな和歌が紹介されていました。万葉集からです。

 夏の野の繁みに咲ける姫百合の知らえぬ恋は苦しきものぞ  坂上郎女

本来は男性への恋の歌なのでしょうが、「百合な短歌」ともとれます。
日替り短歌を表示する某カレンダーソフトのデータを検索してみたら、「百合な短歌」というより「百合の短歌」がいくつか。

 雲雀たつあら野におふる姫百合の 何につくともなき心かな  西行

これは迷いもなく達観しているようで、孤高の姫百合という感じ。

 たわたわに蕾ばかりが垂れいつつ この山百合の長し真青し  若山牧水

こういう歌がいちばん好きです。蕾とか青しとか、よく見ればたわわに見えるのは、長い青春未満の時代の蕾ばかり、その愛おしさ。

 髪ながき少女とうまれ しろ百合に額は伏せつつ君をこそ思へ  山川登美子

「白百合の君」と呼ばれた山川登美子、私生活では三角関係のようなものがあったそうですが、この歌はどう解釈したらよいのでしょう? 額づいたというしろ百合は聖書の比喩にもとれます。それは少女にとっては近代文学への道でもあり、つまりは文学と恋との葛藤なのでしょう。でも百合を違う意味にとるのも読む側の自由なのかも。

乳頭間サイズとは

昨日たどって見たトランスさんのページによるとスキンブラでは谷間はできないと書いてあったりして、人によりけりなのでしょうけど、その人のものと思われる胸のあたりのヌード画像を見ると、痩せ型で左右の乳首の間がかなり離れていて、やっぱりごく普通の男性の写真のようでした。
男性でも人によって乳頭間が狭い人もいれば離れてる人もいると思います。

そこで日本人の乳頭間の平均サイズのデータを探してみました。
「ウエットスーツの既製サイズ表」というページに女性のサイズがありました(男性についてはあまり意味がないとみえて見つかりません)。
それによると、身長162〜166センチの女性で18.5センチ。
ちょっと自分のサイズを測って比べてみます……、普通に立って測ると、19センチ。身長が少し高いので、平均サイズといえるのではないでしょうか。でも少し胸を張る姿勢だと20センチ。それから腰を直角に折って背中を水平にすると17センチですが、バストはそうやって測りますが乳頭間はそういうものじゃないのでしょうね。ウエットスーツの乳頭間サイズとは、普段のブラを着けたときのサイズということみたいです。
脇の下の肉をカップの中に入れると18センチ以下になりますが、数字が小さいのはふくらみが少ないためで、パッドを着けたときの先端は19センチ以上なのでしょう。
そんなわけで姿勢を変えると乳頭間サイズがある程度変化する人なら、スキンブラでじゅうぶん谷間はできるんでしょうね。(「翳りゆく胸」参照)

タックとダーツ

男性のズボンは、アイロンでプレスされた線の前のいちばん上のウエストに付いているところが、数ミリ折りたたむように重なってそのまま縫い付けてあるのが多いと思いますが、そういうのを洋裁用語でタックといいます。女性のタイトスカートでは、その部分はたいてい縦にミシン縫いされて、なめらかなシルエットが出るようになっています。ダーツといいますが、写真のスカートはダーツが左右に2つづつとってあります。
たまに「女装(じよそう) タック」という検索キーワードでアクセスがあるのですが、女装さんたちが洋裁用語を調べてるのだろうと思っていました。でもアクセスをたどってみると、違うみたいですね。どういう意味なのかは検索してみればわかりますが、なるほど、折り重なった陰の部分は見えなくなるわけだし(※)、英語のtuckの意味を調べてもその通りなので、そういう使い方もあるんでしょうね……。鳩子のページでは洋裁用語としてしか使っていませんので、期待された情報は得られません。ごめんなさい。 (上の写真のころは細かったですね)
※ つまりふくろの表皮をつまんで折りたたむように重ねて何かを隠すことみたいです

秋に咲くタンポポ

下の写真は、今年の春の撮影で、斜面に咲くタンポポです。

秋に咲くタンポポもあるらしい、
ということが、setchimoさんの「Private Apple」に載っていました。
http://private-apple.setchimo.jp/?eid=193508
最初は、ちょっとした気候の変化で、"狂い咲き"のようなことが起こるのかしらと思ったのです。それとも何か異常気象のせいとか……。

そこで検索して調べてみたら、「いろんなタンポポを見つけよう」
http://www.ecoweb-jp.org/tampopo.html
というページに書いてありました。
「カントウタンポポ 関東地方に見られる在来のタンポポ。花は基本的に春にしか咲かないが、練馬区の光が丘公園では、秋に咲くカントウタンポポが見られる。」

そのほか、ヤナギタンポポという種類のものが秋に咲くそうです。
http://futarinoyakata.web.infoseek.co.jp/yanagitanpopo.htm

秋に咲くタンポポもある! ということなんですね。

いろんな人が撮影しています。
→(URL略)
秋のタンポポが見られたらラッキー!ですよね ^^*


お見通し?

あたしもこう見えても毎日いろんな心の動揺があってホームページやブログを続けてたりするわけなのです。

それで、もし素敵な男性がいて、毎日鳩子のページを見ていて、キミの心は手にとるようにわかるさ、なんて言われて、毎日メールが来て、読んでみるとやっぱり鳩子の心はすっかりお見通し!なんてことになったら、身も心も捧げてしまうなんてこともあるのかも。

でもなかなかそう人ってあらわれないですよね ^^ゞ

もしかして確信?


むかし、「故郷に帰る」と決めていた人と、1日過ごしたことがあります。会ってお話は聞きましたが、その人の決めたことは尊重して、その後のことは心の中でせいいっぱいの声援を送るだけになってしまいます。今ならその後もずっとネットで連絡をとりあえたかもしれませんね。

「やめようか、どうしようか」という相談でしたら、あたしにはちょっとわからないです。これまで、そういう悩み方をしたことが一度もないからです。いろんな悩みはかかえているのですが、そういうことで悩んだりしたことは、もしかすると一瞬たりともなかったかもしれません。たぶんこれからもそうでしょう。
……それって、もしかして確信?
お医者さまやトランスジェンダーの理論家の人がよくおっしゃる「確信」というのは、そういうもののことなのかしら? 

鳩子のホームページやブログは、いつまで続くのでしょうね。
人の集まるところへ出かけておしゃべりしてくるとか、あまり好きではありませんので、ネットでのおしゃべりのほうがいいとなると、かなり続きそうな予感はあります。もっと研究ページを充実させたいというのが最初からの計画なのですが、やっぱり時間があれば少しは着飾って外を歩いてみたいですし、たまには人と逢ってみたりで、どんどん先送りになっていることがたくさんあります。

不断の優柔

不断の優柔とは、たえることのないやさしさのこと(?)です。
良い言葉だと思います。そうありたいものですね。
辞書を引いてみましょう。

【不断】 (1)とだえることがない。物事がいつまでも続くこと。(2)決断力が鈍く、なかなか決心しないこと。
【優柔】 (1)人がらなどが優しくておとなしい。(2)思い切りが悪くてぐずぐずしていること。 (「新字源」より)

どちらも(2)の意味にとると「優柔不断」なのですが、(1)の意味なら悪くありません。不断の優柔人になれたらいいかも?

趣味は快楽か

いろんな人のホームページを見ていて、すごくエネルギッシュなものを感じることがあります。とにかく自己の快楽の追求に熱心というか、ひたすら追求してゆく姿勢?。
先日、野球のイチロー選手がインタビューで「ボクにとって野球は趣味です」なんて答えてたのですが、アナウンサーが「苦しいことがあってもですか?」と聞き返していました。このアナウンサーの考えでは、趣味は常に楽しいものでなければならないようです。たぶんこういう考えが世の中に蔓延しているのでしょう、それで趣味なのだからと、快楽の追求に熱心な人も多くなるわけです。
自分について「趣味」として軽く見られるのは嫌だという人もいますが、イチロー選手の趣味が野球だというなら、そんなこだわりも不要なのかもしれません。病気が趣味ですというお年寄りもいましたから、GIDが趣味ですという人もいるかも。
趣味は快楽でなければならないことが強調されるようになったのは、趣味を商品として売る側からの宣伝文句から始まったことなのかもしれませんね。たぶんそうでしょう。いわゆる「商業女装」というのが台頭してきたのが、1980年前後だったでしょうか。

男性の理想像

あるページで……、男女のジェンダーの特徴をそれなりに整理した記事を見たのですが、ちょっとその「男性」のとらえ方には失望を禁じえませんでした。
そこに書かれていた男性の特徴とは、「攻撃性」だとか「かたよった脳になりやすい」とかはいいとして、「男にとっての親密さとは、ともに働いたり競争したり、仕事に有用な情報を交換したりすること。 互いの優劣関係がはっきりしていること」といったこと。「優劣関係」の中で上にペコペコ、下には取り込みないしいじめといったこういう男性は、今の管理社会のサラリーマンの一部にはたしかに少なくないのかもしれませんが。
そのページを見て最初に感じたことは、これを書いた男性は、男性であることに嫌気がさしているのではないか、女性への憧れの表明ではないかという同情でした。けれど、まりっぺさんの「ネット上の男たち」 という記事を見ると、今のネット好きの男性の書いた正直な自己分析に見えてきてしまいます。上下関係には従順だということは攻撃性は弱いものにしか向かないことになりかねません。

以前見た男脳女脳判定のページでは、女性は集団生活を好み責任感に欠ける傾向があるとか、男性は責任感が強く孤独を好み、自分の大事なもの(家族とか)を守るためにはたとえ一人になっても外敵と戦い抜くといったことが書かれていました。アメリカ西部劇のヒーローのようなのですが、男性の理想像の一つではあるのでしょう。
日本の股旅物でも同様で「たとえお縄を頂戴しても」戦い抜くのが男なのですが、こちらでは見返りの家庭的な幸福は求めずに再びさすらって行くのが男でした。西部劇の「シェーン」みたいでもあります。

けれど現代社会の複雑さの中では、戦う相手が巨大な暗黒星のような認識に達してしまう男性もあるのかもしれません。そのときは、男性も範囲を狭めた自分なりの落とし所のようなものを見つけるなりしないといけないのかもしれません。
あるいは東洋的な遁世という発想を、生活のところどころに取り入れることはいかがでしょう。
ときどき見かける真面目すぎるFtMさんを見ると、男性的な観念性や、飄々とした風流人の発想を取り入れたらいいのにと思うのですが、ちょっと難しいのかもしれません。MtFはトランスすること自体が男性が遁世した姿といえなくもなく、FtMとは単純な裏返しではないわけなのでしょう。

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求友メッセージをもう一度

ときどきいただくメールで、
無条件にうれしくなってしまう言葉は、『くぃーん』見てました、「貴女のファンでした」というの。ほんとに旧友に会えたときのような感じ。

きゅうゆうといえばあの雑誌の「求友メッセージ」。もう一度投稿してみたいです。2、3年前の水着姿の白黒写真を添えて、ポエム風にメッセージを書けば、お手紙5通は来るかも。返事は昔みたいでなく早めに書くことをお約束します。便箋に何枚も何枚も書いてある手紙の時代でした。もうあの雑誌はありません。

さて最近のネット時代の男性の困った点というのは、相手が想定外の反応をしたときに、対応がよくできずに思考がストップしてしまったりするところなのでしょう。こちらとしてはどうフォローしたら良いものか

潮風のメロディ

♪もうひとこといわれたら恋人でいたのに ・ ・ ・
われらがアイドル南沙織の歌ですけど、先日15年ぶりの中央総武線突破で、千葉県の某海岸にお出かけでした。感謝♪ 15年前とはあの懐かしき神田岩本町のことですが、総武線から200〜300メートルですけど、越えてたと思います。
掲示板等月曜日以降コメント予定です。

どこかで逢ったような

理想的な恋愛とは、相手との親密な関係が、どちらか一人の死ぬまで続くということなのでしょうか? よくわからないところがあります。
実際には人間は、複数回の恋愛をする人が多いわけです。最初の恋愛は予行演習みたいなもので、人の恋愛は恋愛進化論的にハッテンして行くというものなのでしょうか。人によっては最初の恋愛に燃えつきてしまって、二度目の恋愛はまたたくまに人生の墓場のような状態におちいってしまったという人もいるかもしれませんが、ちょっと話は違うかも。

進化論や発展史観は、一つ間違えば失敗史観のまま終わりかねないようなところがありますよね。

春に花が咲いて、蜜蜂がやってきて、毎年季節が繰り返します。人の一生の存在の中にも、どこかにめぐる季節のような懐かしい繰り返しを感じることができれば、どんなに幸せなことでしょう。小動物のように人生が5年くらいしかなかったなら、小さな愛も大きな恋愛です。
悲しかった別れも、裏切りも、もしかすると失敗の恋愛ではなかったかもしれません。そんなふうに見方を変えられる糸口が見つかったら、幸せです。

初対面でいきなり「どこかでお逢いしませんでしたか?」というのも困りますが、
どこかで逢ったような恋というのは、ほんとうは悪くないと思います。

ジェンダー(性役割)をトランス(転換)する人の場合も、人生の最後におけるジェンダーのありかたがその人の本質であり、その人の人生の目的だということになるのでしょうか? そうとは限りません。人間は神の唯一の失敗作だと言った文学者がいたそうですが、失敗なのは、生まれたときの性別だけのことではないのでしょう。
50歳で亡くなった人が、もし長生きしてたら、52歳でトランスしてたかもしれません。
トランスして行くプロセスの中にも、螺旋のように最初に戻ったりすることが起こることを楽しめたほうが幸せのように思います。

蛇足ですが、ドイツ語やフランス語では、季節はみんな男性名詞なのだそうですが、四季を男女で分担するのはどうでしょう。
冬と春は女性、夏と秋は男性……というのは、東洋の考えで、
女(冬=水、春=木) 男(夏=火、秋=金)と見たわけです。

「私が私であるために」という

『私が私であるために』というテレビドラマが昨晩(10日夜)放映され、主演は相沢咲姫楽という名前の新人女優さんで、性同一性障害をテーマにしたドラマのようです。ニューハーフの女優さんらしいです。
「私が私であるために」とは、今はどんな立場の人のテーマでもありうるのでしょう。「自分探し」というのも同じようなことです。ちょっとタイトルとしては、もう聞き飽きたような言葉かもしれません。でもそれはそれで良いのかも。どんなストーリーかはわかりませんが、個人的にはリアルすぎるのはちょっと苦手です。

さて、10/3に書いた「雨上がりの大学通り」は、超短編小説で、たいした出来ではないのですが、それなりに鳩子らしく書けた面もあります。

ストーリーの最後の場面で、思い出の女性に息子がいたことを思い出すところは、単に言葉だけで思い出しているのが工夫が足りないところです。
学生時代に一度愛を告白するシーンがあってもよかったかも。そのとき彼女はもう学生結婚していて息子までいたのであきらめたとか、そして別れ際に古い万年筆なんかをプレゼントしたりして……。そして現在、散歩ですれちがったときに、うりふたつの女性が、バッグから落とした万年筆を拾ってあげたとき、「おや?」と思って、ドラマチックだったりして……
でもストーリーとしては、自分が一度、風景のようになってしまえたほうが、「私が私になる」のにいいのかも。「である」でなく「なる」ということについては前回記事で書いたような気がします。

むかし知ってた人にそっくりな人を見たという経験は、10年以上前に何度かありました。たぶんぜんぶ思い込みだろうとは思います。でも最近はそういうことすらなくなりました。想像力が貧しくなってしまったのでしょうか。けれど私の思い出に残っている女性に関していえば、ズボンをはいた女性はいないので、最近は見つけるのはむずかしいのかも。
男性については、あれからもう20年たっているから、今はこのくらいのふけぐあいだろうかとすぐに考えますが、女性についてはそういう想像はあまり働かないかも。

★追加
元の話に戻って、ドラマは見ませんでしたが、ストーリーの紹介をどこかで読んだ限りでは、やはり性自認というのでしょうか、最初から確固としたものがある「私」があって、その「私である」ことを危うくさせるようなピンチが外から訪れるといった筋立てのようです。

なりそこないも、ふたなりのうち

零れた女と書いて「零女」。
おちこぼれの女という意味です。
ちょっと難しい言葉で言い替えると、零落した女。なりそこないの女のように見えますが。
「なりそこない」という言葉も、悪い言葉ではありませんし、何か高貴なものになりそこなったことなのかもしれません。

ふたなり」とは、二つのものになることです。西洋の両性具有というと既に二つを備え持っている状態のようにも見えますが、日本のふたなりは成って行くプロセスのことになるのかも。

トランスジェンダーとは「性別越境者」なんて漢字で書かれることがありますが、越境者なんていうと、何か確信があって自分の意志で越えてゆくようなすごさがあります。
そういえばこれまで、トランスの世界では「自分の意志」という言葉をよく見かけたものですが、これは要するに手術を担当する医者が臨床の現場で「本人の意志」を確認することから始まって、彼らが文書にしたものが広まって、彼らの語法が知らず知らずのうちに広まりすぎたようなところもあるのかもしれませんね。人間が言葉に振り回されてしまっているような現象すらあります。

トランスのことで意志について聞かれても困ってしまいます。なるようになったんじゃないかと思いますし、これからもなるようになるかもしれません。なりそこないでも、それはしょうがないことです。

成るというのはプロセスのことですから、なりそこないも、ふたなりのうちに含めてもいいわけなんですね。

肘の関節

http://plaza.rakuten.co.jp/sotai/diary/200607090000/
というページの「腕の男女の性差」という記事で、女性の骨格の形の特徴として、骨盤の大きさ、それともう一つ、腕を下げて手のひらを正面に向けたときに肘から先が外へ広がるように曲がっていると書いてあったわけです。そうなのかなと思って、いろいろ検索して見たのですが、同じようなことを指摘しているページは見つかりませんでした。

鳩子のこの写真ではあまり肘から先は開いていません。右腕が外に開いて見えるのは右肘を少し曲げているからです(右肘が高い位置に写ってます)。この写真で肘から先が太いのは純女ではないからですが、このことは今回の問題ではありません。
男性は、肩から両腕を垂直にまっすぐ伸ばすことができますが、女性は骨盤の幅があるのでそれは不可能なので、肘もそれに対応しているのかどうか・・・?

アイドルの写真を見ると、「タレントの加藤紀子さんの写真」がありましたが、体重をかけているから肘から先が広がって見えるのでしょうね。関節が柔らかいのでしょう。「西田ひかる」さんも同じです。なかなか手ごろな写真が見つかりません。もう一つ、「松本典子さんの写真」を見ると、やはり肘の関節が柔らかいのがよくわかります。
そんなわけで、肘の形そのものが開いているのか、関節が柔らかい人が多いのでそう見えるのか、結論が出ません。

雨上がりの大学通り

 雨上がりの秋の大学通りを、一人の初老の紳士が、ぼんやりと歩いていた。黒っぽいコートの背中を少しかがめて、路地の古書店や喫茶店の店先を横目で懐かしそう眺めながら、少し立ち止まってはまた歩き出し、ときどき街路樹の梢を仰ぎ見ては、ため息をついていた。
 歩道をすれ違う学生たちは、老人には目もくれずに、みな急ぎ足で通り過ぎて行った。そんな中に、一人の背の高いすらっとした、花柄のワンピースを着た30歳くらいの女性が、こちらへ向かって歩いてくるのが見えた。
 ……私の高校時代の英語教師も、よくあんな服を着ていたな
 と、彼は懐かしく思った。
 ……待てよ、ここは私の通っていた大学通りではないか。高校はここではないし、彼女があの教師であるわけがない。
 否定はしてみたが、もともと学生時代を懐かしんでの今日の散歩である。心のタイムスリップが過ぎてしまったのかもしれない。
 ……しかし、あれから40年もたっているのだから、彼女があんなに若いままでいるはずがない。
 そう考えてみると、老人は自分の勘違いについ苦笑せずにはいられなかった。
 そのとき女性は、老人の横を通りすぎた。突然含み笑いをする老人を、けげんそうな顔でちらと見て、通り過ぎて行った。
 老人は一瞬、女性と目があって驚いた。彼の高校教師ではなく、大学時代の1年下の、彼がほのかな恋心をいだいていた忘れることのできないあの彼女に間違いないと、思えた。
 傍らの喫茶店の店先の看板も、昔のままの懐かしさだった。
 ……この店でサークルの仲間とみんなで、遅くまでよく語り合っていたな。彼女はいつも控えめな聞き役だったが、いつも明るい笑顔でみんなの憧れのまとだったっけ。
 老人が後ろを振り返って見ると、彼女はもう10数メートル先を歩いていた。
 ……あの後ろ姿。彼女に間違いない。あのころの私は、彼女とは親しく会話もできず、いつもこうして後ろ姿を見送ってばかりだった。
 老人は、その女性を追いかけて声をかけてみたい衝動にかられた。しかし……と、また思った。
 ……しかし卒業からもう30数年もたっている。彼女であるはずがない。それに背もだいぶ高いようだし……。しかしよく似ているものだ。あんなに似ている人もいるはずがないではないか。もしや彼女の娘さんだろうか。だったら背が高いのもうなづけるわけだ。
 老人は妙に納得して、後を追うのを止め、再び歩き出した。学生時代の美しい思い出は、そのままにしておいたほうがいいのだと思った。
 ……そういえばだいぶ前に噂に聞いたことがあるな。彼女の子どもももう学校を卒業して立派にやっているって。コンピュータの学校だったかな。たしか一人息子で……。
 老人は街路樹の梢を見上げて、またため息をついた。
 ……一人息子? よせやい。誰だい、まったく変な噂を吹き込みやがって。あんなに魅力的な女性じゃないか
 老人が再び振り返ってみると、女性の姿はもう彼方へ消えてしまっていて、空にはぼんやりと虹がかすんで見えていた。

細く見えた理由

意外に細く撮れた写真の、理由を考えてみます。

この写真はカーディガンがポイントでしょうか。薄い生地で、横に引っ張れば伸びるのですが、伸びたままになってしまうところがあって、着ているうちに袖がゆるめになっていって、縦方向はは七分袖のように短かくなってしまう感じです(縦に引っ張れば戻ります)。袖がゆったりと広がってウエストのあたりを隠して、細めに見えるのだと思います。
ゆったりめの袖が良かったわけなのでしょう。

困った基準

トランスの世界ではよく性的指向性という言葉を聞きますけど、よくわからない言葉ですね。性的指向性とは要するに男が好きか女が好きかみたいなところもありますが、人間というのは、相手によってどうにでも変われるものなのかもしれませんし……。

自分を最初からこうだと決めてしまって、それを理解してくれる異性がなかなか現れないと嘆いている若い人も多いような気がします。そのわりに「自分探し」なんていうのが不思議なのですが、というより、どこにもいないような自分を、本当の自分だと思っているから、理解されないのかもしれませんね。そういうところは誰にも少しはあるのかもしれませんけど。
人によっては、「指向性」を決めて行動を限定することによって、心が安定する場合もあるでしょうから、それはそれで良いのでしょう。

ところでこの性的指向性という言葉は、一昔前には、MtFだと指向が男性ならトランス度が高いみたいに言われたこともあったようです。今のGIDさんたちの間ではそういう基準はないようで、GIDは「心の問題」だから服装の指向すら関係ないんだという傾向もあるらしいです。服装はどんなときでも一つの文化だったのですが、そういう新しいみたいな「心の問題」は、文化とも離れてしまうのか、今のところはわかりません。「心」の一人歩き、心のさすらいというのでもなく、心を判断するのは心しかないという超越者が旧文化を全否定すること、……ただの新ビジネスをやりやすくするには、前提条件が何もないのがいいのかもしれませんけど。
トランス度の基準の話にもどりますけど、性的指向性のほかに、「幼いころからそうだった」というのも、一昔前に基準にされてたみたいで、これも今は否定する人が増えているようです。でもやっぱり新しい別の基準ができてしまってるようですね。基準というのは、どっちが高いか低いかという話になるので、困ってしまいます。

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