女体に近い聖徳太子像

大工さんなど職人さんたちによる太子講というお祭りでは、聖徳太子の姿を描いた掛図の前で、飲食なども行われるそうです。
絵に描かれた聖徳太子の姿を見て、「一見女体に近い」ものだと表現している人がいます(下記URL)。
http://www.bihoku-minpou.co.jp/kokora33.htm
(上記URLのページの挿絵は掛図とは別のもののようです)
仏教を広めた聖なる人のイメージから、観音様のように描かれたのかもしれません。

聖徳太子が14才のとき「束髪於額(ひさごばな)」という髪形だったと日本書紀に書かれます。束髪於額という文字からして、額の上で髪を束ねた髪形で、それが、ひょうたん(ひさご)型に見えたのでしょう。
太子が14歳のときに蘇我氏と物部氏の対立が激しくなり、太子は蘇我の軍とともに戦いに出ました。出かける前に、太子は、小さい四天王の像を作って額の上の束髪の上にのせて勝利を祈り、「もし戦いに勝つことができたなら、四王のための寺を建てましょう」と誓いました。この戦いに勝利してのちに建てられたのが大阪の四天王寺だといわれます。

「束髪於額」という額の上で髪を束ねる髪形は、元服前の少年の髪形だともいわれることもあります。女性の髪形は「隋書倭国伝」に「婦人 束髪於後」とあるので、おおむね後ろで束ねるのが普通だったようです。男性は頭の左右で髪を結う「みづら」という髪形が多いようで、考古学者が埴輪の人物の性別を考えるときは「みづら」以外の髪形をおおむね女性だろうと推定しているらしいです(あくまで推定らしい)。
(「踊る埴輪と髪形 http://www.konanmachi-stm.ed.jp/kyoui/oboegaki/kamigata.htm」というページに、古代の男女の髪形の違いについて詳しく載ってるので、とても参考になります。)

ということは、14才の聖徳太子の「束髪於額」という髪形も、あえていえば「女装」に近いのかもしれません。むしろ戦いに臨むときであるという状況を考えれば、古代のヤマトタケルや戦国時代の長曾我部元親 のように、そういうのは当然なのかもしれません。とはいえ、聖徳太子のような生まれの人は、幼いころからずっと稚児のような少女のような服装で暮らしていたのでしょう。

次のページも少し参考になります。
http://osage.hp.infoseek.co.jp/rekishi.htm 日本における「おさげ髪」の歴史

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