へなちょこライターがんばる

鳩子が15年くらい前に写真のように可愛かったころ(笑)、少しづつ本を読んで勉強して、将来、自分のことやトランスの歴史その他いろんなことを文章を書いてまとめようと思いました。それにはやっぱり論理的な思考を身につけなければと思いましたから、論理性とは男性的なものでしょうから、女性ホルモンは飲まないほうが良いと思いました。それで、その通り来ているわけです。

けれど最近思うのは、論理的に考えれば良いものが書けるということではないんじゃないかということなのです。それだけで何かが書けますか? 
私はもともと評論風の文章を書いたりするのは好きだったので、そういうのは論理的なんだろうと思っていました。でも最近自分のHPを見てもらって言われるのは「フェミニンな感性」だとか「女性らしい視点からの云々」とか、実際その言葉の通りかどうかはわからないのですけど、私はもともと直観人間だったのではないかしらと思うようになりました。
で、学者になろうというわけでもなし、論理とかいうことではなく、自分の好きなように書いていったほうが、それを自分で読んでみても楽しいわけです。

歴史学者の中で面白いと思うのは文学的なセンスのある人の本です。国語学者でいえば大野晋という人は文学的なセンスのある人だと思います。有名な学者さんでもそうなのですから(単なる論理性だけで書くのではないのですから)、私たちのへなちょこな論理だけで何か書いても、へなちょこはへなちょこでしかないのではないでしょうか。

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コメント

雨庭みどり : 2005年6月12日 11:42

ちょっと、知ったかぶりをm(_ _)m
論理、というものの捉え方が、雑駁に言えば、
自然科学系、社会科学系、人文科学系それぞれ
違うのではないかと、思うことがあります。

自然科学系では、証明され定義されたものを
積み重ねていく。あいまいな定義の言葉では
論理が積み重ならないのだろうと思います。

一方人文科学系では、仮説の上に仮説を載せ
その人なりの解釈、感性を加えて論理とする
という面があると思います。あくまでも仮説。

社会科学系はその中間的でしょうか。仮説を
定義された用語で論理立てていく。言葉には
常に根拠となる理論なり法なりが存在する。

私は、それぞれ論理には違いないとは思って
いますが、でも、それらを一緒にはできない
のかも、と思っています。

仮説を自分の人生観と絡めて、仮説のままに
議論をしていくって知的な意味で楽しいこと
だと思います。よりユニークな仮説の方が、
面白いし(笑)。誰も気づかない、あるいは、
切り込まない切り口で論じると、へぇ、とか
感心することがありますよね^^。

鳩子さんのページには、そんな感じの切り口
の新鮮さや面白さが溢れていると思います^^

それが、論理的かどうか、というのは、どの
立脚点に立つかということで変わるのでは?

鳩子 : 2005年6月12日 17:06

知的な意味で楽しいこと
きちんと整理してくださってありがとうございます。
鳩子はちょっと整理整頓が苦手なものですから。^^;

あたしの場合、空想や妄想が一見論評のような形式で表現されてしまうのです。それが原因でちょっと面白そうな視点も出てくるのかもしれません。でも、ときどき現実と空想の区別がつかなくなって事実誤認のような文章になってしまい、あとで気づいてこっそり内緒で訂正しておくこともあります。
でも例えば「十六歳といえば成人であって稚児は適齢期の女性そのもの」と書きながら、あとでいちがいにそうとも言えないような事実も出てくるのですが、でもこういう矛盾というのは稚児という存在そのものから出てきてそのように見えてしまう矛盾なのであって、それが実は矛盾ではないんだという認識に達するためには、やっぱり哲学的で論理的な思考が必要になってくるのかな、なんて思います。

学者さんたちには厳しいお立場があったりするのでしょうけど、あたしたちはそういうのに無知であるおかげで、肩書きのある人がそう言ったからってそれが正しいとは限らないんじゃないの、なんて平然と言えるわけです。
こういう遊びが知的かどうかはわかりませんけど、でも楽しいですよね(*^。^*)

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