れんげ草の花輪

 野原一面に咲くれんげ草と、れんげ草で作った花輪や鞠で遊ぶ子の画像です。
邊見泰子著『草花遊び全科』(朝日新聞社1976年)より拝借しました。
右下の小さい枠の絵はすみれの鞠。
小さいころ女の子どうしで、または少し男の子がまじって遊びました。
こういう風景を見ることは今はほんとうに少なくなったかもしれません。

花の一輪だけで強烈に存在をアピールするかのような花よりも、野原一面に咲いた花の全体が一つに生きているような花たち……というのも素敵です。
この本が出たころは、子どもの流行もロングスカートだったようですね……

にのうでフェチ

 年齢とともに腕の太さを気にしてたら、ある人に、にのうでがイイとか、肩の上から10センチくらい下のところが写真のようにぷくっとたるんでる感じがイイとか言われ、そういうものかなと思いました。
 聞くところによると、最近は二の腕フェチの殿方も増大中とか。こういうことに関してなら、若い子には真似できないというか、年輪を重ねてきた甲斐があるというものです。
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(旧トラックバック)
手フェチの「詩」みたいなラブレター。
「世界のすみっこにある愛へ」歩いていて踏んじゃってる道ばたの花、ごめんお前が咲いてくれてて勇気づけられた日もあった傷ついてうつむいて歩いてた日視線のさきにお前が生きてた自分のプライドが傷ついたと嘆いてたアタシ誰も見てくれなくとも咲いているお前に教えられた・
2005/06/02 オンナはみんな手フェチ


鳩子のミラーワールド

写真は、壁掛けの鏡です。
右手が鏡の枠から出ています。
右手で何をしているのでしょう?

ま、すぐわかると思いますけど ^^ゞ
カメラを持ってるわけですよね。
鏡にカメラが入ってしまうと、ストロボの光でまっしろけになったりするかも。
……鳩子のミラーワールドでした。
(^o^)/ [YahooBlog"やっぱり鳩子"より]

手フェチ Part2


 手フェチpart1 につづく第2弾です。
手フェチのことを最初に書いたのは去年の8月19日の画像掲示板でした。

HPでも使ってる写真ですけど……
何を隠そう、かつての鳩子のチャームポイントは
 手 だったんですね(#^.^#)
最近はやや日焼けがもどりにくいときもありますが、「手フェチ」の掲示板を開いても面白いかも。
手自慢の人のレスがあると、うれしいですね ^o^ 」(8/19)

というわけで翌日、にゃん丸さんからメールがありました。

 私が高校生のとき体力測定でハンドボール投げというのがありました。ほとんどの男の子たちは大きなハンドボールを手で掴んで投げるから遠くに飛ぶわけです。鳩子も男の子にまじって投げてみましたが、大きなボールを手のひらに乗せるのがやっとで、ぜんぜん飛びませんでした。そういう子が何人かいました。
 元野球選手の江川投手は、指が短かかったのでフォークボールは投げられなかったそうです。フォールボールは人差し指と中指にボールを挟んで2本の指で投げるらしいんですけど、短いと挟めないわけ。男性の長い指もいいですよね〜。

 coccoちゃんの"オンナはみんは手フェチ"、オンナはオトコの手を見るってそうですよね。
 女性どうしでも相手の手を見ますから、トランス女性は気をつかってしまいます。
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(旧トラックバック)
今宵、手フェチ占いはいかが?
「屋敷」のお祖母ちゃんが、あの人をギー兄さんという懐かしい名前で呼び始められた。神崎じいからエッチなBarのお誘いをもらって、coccoの頭に浮かんだ小説の書き出しよ。なんて小説だったか思い出すのに1時間と37分もかかっちまった。思い出すまで寝られないタイプなの。・
2005/05/25 オンナはみんな手フェチ


ホームページとHatopia計画2

 鳩子はメカはまったくダメというわけじゃないけど、得意じゃないみたいです。デジカメはオートモード専門だし、でもパソコンは少し慣れました。
 ハードのことはよくわからないのですが、ホームページを始めるようになって、HTMLのことがだんだんわかるようになりました。

 <center> とやると

文字が中央になります。
<b>で強調文字、<font size="+1">で字を大きくしたり、色をつけたり、<img src="...">で挿絵を入れたり……。なんとなく印刷物の校正記号に似ているようにも思いました。他に、枠をつくる<table>とリンクのしかただけおぼえて、ホームページを始めたのです。ヘッダや<body>までは入門サイトの見本をそのまま使いました。

 たったそれだけの知識でできるの?とお思いでしょうが、できちゃうんですね、これが。本当は最初ちょっと心配でしたけどね。でも普段はおしとやかでも、いざとなったら開き直って当たって砕けろ!なんていうのが私なのかも。でも今はもっとたくさんおぼえて、スタイルシートも使います。

 「HTML文法」っていうくらいですから、文法なんでしょう。理系のあたまでないほうが、すなおに取り組めるのかも。
 ホームページを始めるからといって良いパソコンに買い替えると必要はないみたいです。自分だけストレスの少ない高級機を使っていては、見る人のストレスがわからなくなりますから。

 ホームページの内容は、特殊な趣味のページではないと思っています。私自身の趣味も普通の範囲です。トランスジェンダーなどの問題についても、社会に自然に溶け込むことが理想ですから、ホームページを登録して紹介してくれる所のカテゴリ分類は、「性」だとか「ジェンダー」だとかにことさら限定する必要はないわけです。トランスジェンダーとして「歴史」や「文学」などについての私の趣味のホームページやブログを作りたいだけなのです。つまり、「Hatopia計画その2」ですよね。 ^^*

ブログにしてみます

ほかの人のホームページの掲示板へ書き込みをするときは、ホームページの内容についての感想を中心に書くようにしてきました。
下書きを書きながら、これはちょっと長すぎるなと思って、無理して短く切り詰めることがよくあります。
それで、書き込んでから何日かして、自分のコラムやブログのネタに困ったとき、あのときの書き込みのネタがもう一度使えないものかしらと考えます。けれど、そのままの文章では、相手先に申し訳ないと思い、そういえば書き込むときに文章を短くして削除した部分があったことを思い出し、それをもう一度書き足せばいいかもしれないと思います。ところが、さてどんな内容だったかしらと、一生懸命思い出そうとするのですが、なかなか思い出すことはできないのです。
 そんなようなこともあって、よそ様のページの感想を自分のページに書くことも多くなっていました。これはもうブログのスタイルではないかと気づいたのが昨年暮れのことでした。
 もっとトラックバックの機能も使いたいのですが、性的小数派ゆえ、相手先によっては遠慮してしまうことも多いです(4/21)。

後ろ姿

  最近の男の子は、トイレでおしっこをするのにしゃがんでする子が多くなっているというニュースが、しばらく前にありました。外にこぼれてしまったものを、お母さんがお掃除するのは面倒だといって、しゃがんでするようにしつけているというケースが多いのだそうです。
 鳩子も大人になるにしたがって、どういう服装のときもしゃがんでということが多くなりました。

 また、戸籍の性と異なる表示のあるトイレに入ることは、法律では云々という話もあるのですが、庶民生活の長い歴史では、性別は服装や髪型で認識してきたこともあり、トイレでは異性の服装の人が入ってくることのほうが大きな違和感が生じます。トイレで他人どうし顔を見合わすことは女性どうしではあまりないでしょうけど、なぜか男性どうしではあるようです。ちょっと羞恥心が違うのでしょう。まんいち質問を受けたらGIDですと言えば今は通ると思います。GIDの語義にこだわる必要はありません。見た目の違和感が少なければですけれど。

 見た目の違和感といえば……、自分の今の年齢ではとても女性に見えないので、もうそういう服装はやめて、綺麗に見える人をホームページなどで遠くから応援することによって、自分の気持ちを保とうとする人が、とても多いということです。そういう判断は、女性的な羞恥心の気持ちから生まれるものであって、気持ちが変らないのだろうと思います。

 『鳥部山物語』という室町時代の稚児と僧の恋愛物語を読むと、稚児の美しさについては、やはり髪型や服装のことしか書いてありませんでした。ただし後ろ姿のことは書いてあります。道を歩きながら他人の顔をじろじろ見ることは、今の人もあまりしないと思いますが、後ろ姿はじろじろ見る、というのは室町時代も今もあまり変らないということなのでしょう。注意しないといけません。

アタシとワタシ

 今は、おおざっぱに言うと、自分のことをアタシというのは女性が多く、男性はワタシが多いのでしょう。男性はボクとかオレともいいますけど。
 男性でアタシという人もいます。特に落語家の人たち。中でもいちばん耳に残っているのが桂歌丸さんだったので、ネットを調べたら、インタビュー記事にちゃんと「アタシ」と書いてありました。
http://www.sasakure.com/yamoo/favorite/rakugo.html
 林家木久蔵さんのもありました。
http://salus.jp/magazine/backnumber/0212/interview.html
 芸能の人たちばかりでなく、下町の普通のおじいちゃんも、アタシと言ってた人が多いと思います。男だからどうだとかいうことではないのでしょう。ワタシという言い方は明治のころの学校から広まったものとは思いますが、地方や地域によっては、発音しづらい言葉だったのだろうと想像しています。

 私は自分のことをなんて言うかというと、男性の前では間違いなくアタシです。でも同性(?)的な人の前ではワタシ、というか、昔のある慣習が残ってしまっているのでしょう。

着せかえ人形

 紙でできた着せかえ人形というのがありました。表と裏を貼り合わせると平べったい人形ができます。衣類は肩のところに細い貼り付け部分があって、表と裏を合わせて、サンドイッチマンのように上からかぶせて着せました。サンドイッチマンの意味がわからないという人もいるかもしれませんけど。^^;;

 日本の浮世絵は、面で構成するのだともいいます。和服は、みんなたたむと平べったくなります。
 現代の「飛び出す絵本」は、閉じたままだと平べったいのですが、本を開くと、ぐっと立体的に広がってきます。
 平べったい着せかえ人形も、子どもたちの心の中では、そうやって無限の広がりを持っていたのでしょう。

 画像は京都書院発行の『人形』から。

性と責任

  性差心理学というページ http://iwao-otsuka.com/fm/indexfm.htm を見たら、責任をとるのが男性、とらないのが女性、といった書き方がありました。
 どんな意味でそう言うのか、よくわからなかったのですが、ページ全体を見た印象が、なんとなくアメリカの西部劇に出てくるような家族のイメージを思い浮かべさせるものだったので、あちらの研究の影響もあるのかと、英語の辞書を調べました。

 英語では責任とは、外部の社会から課せられた責務のことをいうようです。毎日毎日、その日の責任を果たし、やすらかな夜を迎え、神に感謝をささげるイメージです。社会の背後には神があるのでしょう。
 社会の責務とは、経済活動や税や賦役などのことをいうようです。確かに男性を中心に担ってきたという過去の事実を言っているのでしょう。
 家事などは外部からの責務ではないのですね。

 今の日本で「責任」といえば、責任感であるとか、道義的で個人の内面の心理ばかりに目が行ってしまいます。情緒的な民族なのでしょうか。
 あるいは、責任の所在を明らかにしろとか、責任をとるとか、責任者であるとか、まるで立場の低い多くの人々には縁のないものであるかのようにもとらえられています。つまり、「下に対しての責任」なのです。ただしその背後に「神」があることは共通しています。つまり「お客さまは神さまです」というあの神です。これはかなり得体の知れない神さまですね。
ジェンダーの問題にまで行きませんでした。また、タイトルがおおげさすぎました。

日陰で撮るか、日なたで撮るか

このブログ(やっぱり鳩子)は写真についての話題がメインになってますが……
日陰で撮るか、日なたで撮るか
という問題は、重要な問題なのかも。

私は日なたで撮ると、陽射しがまぶしくてつい目を細めてしまって
目がぱっちり撮れないことが、何回かあって以来、
木陰とかの日陰を見つけてストロボを使って撮ることが多くなりました。

それで、みんなそうなのかと思ってたら、そうでもないみたいなのです。
Sさんという人と一緒に外で写真を撮ったとき、
そのときはあまり陽射しのことを気にしないで撮りました。
そのときの鳩子の写真は、やっぱり目が細くなってるのが何枚もできてしまいました。
ところがSさんの写真はそうではなかったのです。
どこが違うのでしょう??

やっぱり、まぶたや目の周囲の作りが違うからのようですね。
Sさんのまぶたは、やや肉厚ではれぼったい感じで、
陽射しの中でもまぶたの下に横に細長くできた陰が目尻の先まで伸びて、
切れ長の目の感じに撮れていたのです。

鳩子は、目が少し奥まってる感じなので、
日陰なら自然に陰影ができて、
自然のアイシャドウのように撮れるのですが、
陽射しの中では、光がその影を飛ばしてしまって、
目がしょぼしょぼしてしまうのです。

人によって違うものなんですね〜 皆さんはどっちのタイプでしょう??
[YahooBlog"やっぱり鳩子"より]

リボンの騎士のこと

リボンの騎士。
好きでした。
サファイヤは、普段は男の子の服装をさせられて、でも誰も来ない部屋の中では、女の子にもどって、女の子の服装ができるのでした。

事情があってやむをえず男の子のかっこうをしているけれど、本当は女の子である、という点では、鳩子と同じなのかも??
最後がハッピーエンドになるというところも良かったのです。

乙女のロマンス手帖


『乙女のロマンス手帖』という本は、昭和30年代ごろの少女雑誌に掲載された絵物語のさし絵や記事、漫画、付録などを紹介した本です。
 昭和40年代ごろまでの少女雑誌には、次から次へと不幸がおそいかかる話とか、そこから立ち上がる話、人さがしや肉親さがしの話が多かったです。スリラーものもありました。
 どこの町にも町はずれに絶対近づいてはいけないといわれていた廃屋があって、おばけが出るとか、人間ではないような人が住んでるとか、いろんなうわさがありました。
 あのころの女の子はみんな髪にリボンをつけていたとか、可愛い記事も多いです。
 少年雑誌の付録の定番は、組立て模型もあるけれど、やっぱり日光写真でしょうか。少女雑誌の定番は、編み物セットですよね。懐かしいですね……
 本は、堀江あき子編、河出書房新社、1500円。

ウエストニッパーについて

 女性なら誰でも細いからだでありたいもの、そこで私などは、コルセットやウエストニッパーやらの矯正下着にお世話になってきたわけです。

 古い言葉に「すがるの如き細腰」というのがありますが、スガルとは蜂のこと、細腰とは今でいう細いウエストのことで、蜂の丸いお尻やおなかのその上がきゅっと細くなっていることをたとえて言ったものとのことです。「すがるの如き細腰」とは、実は女性だけでなく、若い男性の容姿に対しても、ほめ言葉だったようです。

 「風と共に去りぬ」という映画の中で、ヒロインのスカーレットがメイドにコルセットを締めてもらうシーンがあったのを憶えています。そのときの会話で「47センチ……」とか言ってたのが耳に残っているのです。もちろん日本語吹き替え版です。

 私のばあい若いころは、ぎゅっと締めあげたら63センチくらいになってました。身長が170センチですから、かなり理想に近い数字だったらしいです。肋骨の一番下の骨の位置が63センチでアンダーバストが73センチくらい。アンダーバストより10センチくらいの差にしかならないと思います。へこんだお肉の部分はどこへ移動したかというと、おおむね下腹部でした。ちょっと胃下垂ぎみになります。
 最近は少し太ってしまったので、あまり細くはならないのです。数字は差し控えますが……、ぐっと締めると、骨盤の上の左右にお肉がはみ出すような感じというか……、骨盤の横にパッドでも入れれば良いラインになりそうではあるのです。締め上げた反動が胸から上にも現れるみたいで、胸板も厚くなっているような感じです。やはりもう少しダイエットしないと期待する効果は出ないのでしょう。若いころと比べるとスリーサイズのうちBとHが増えた数字は同じくらいなのですが、Wはその数字よりだいぶ増えてしまったのが最大の原因なのでしょう。
 若いころのドレスをもう一度着てみたい……、やっぱりダイエットしかないのでしょうね……。
(写真は古いものです。「みどりの居酒屋日記」さんを読んで書きました)

方向音痴

 私はそんなに方向音痴ではないと思っていたのです。それが最近どういうわけか同じところをぐるぐる歩き回ったり、いろいろですけど、でも地図もなしにカンだけで行き当たることもたまにあります。
もともとカンに頼っていたのが、最近カンが鈍くなってしまっただけなのかもしれませんけどね

 性差についての研究者によると、男性は空間認識に長けていて、方向音痴は少なく、突然聞こえた救急車のサイレンの音の方角もわかるとか書いてありました。すごいですね。
 それに対して女性は時間認識に長け、とは書いてなかったですが、記念日などはよく憶えていますから、そういえるかもしれません。

 野球選手のストライクとボールの見分け方はすごいものがあって、動体視力とかいうのでしょうか、一種の空間認識でしょう。原始時代の狩猟労働によってそうなったと研究者はいうのかもしれません。

 男性は宴会などで、自分のすわる席に気をつかうらしいです。自分の立場をわきまえるのが社会人としてとうぜんということらしいですが、つまり序列意識です。昔の左大臣や右大臣にはじまって、空間に配置される関係といえるかも。

 子は父に父の子であると認めてほしいと思います。認めてほしい、認めてあげる、というのが男性の人間関係の基本にあるのでしょう。そうやって序列ができて空間的に配置されていったのかも??

Hatopia計画

 昨年秋にこんなことを書きました。
「室町戦国時代には日本中を旅して歩いた修行僧のような人が多く……中には色白の美貌の若い僧もいて、宿をとった先で急にからだが異常をきたし、特に下半身が熱を帯びたりとかして……、一晩のうちに女性に成り変わってしまった、という話がいくつかあります。そして僧をやめて女性としてその土地で結婚して普通に暮らすようになったという話です。
 女性の半陰陽だったのかもしれません。けれど、性別の特別な人たちが生きてゆくための「受け皿」としても、僧侶の世界があったように思えます。そういう人たちを救済する組織としても機能していたのでしょう。女性に成り変わってしまった場合は、俗の生活に戻りますが、そうでない人たちは一生涯、僧で暮らすのでしょう。」(変成女子について)

 世俗に戻って普通の暮らしの女性になるか、僧籍のままでいるか、二つに一つの選択です。さあ、どちらを選びましょう。

 鳩子のホームページを見た印象としては、「普通の女性」がこれだけ大量の写真を恥ずかしげもなく(?)世界に向けて発信するはずがなく、難しそうな歴史を調べたりするはずもない、という見方もあります。日本の寺院の歴史が学問の場所として始まったことを考えると、鳩子のホームページはまさに後者の僧の道を地で行っているかのようです。また写真については芸能者的な傾向だといえなくもありません。
 けれど現代の価値観が、本来の普通の女性や普通の男性のものの見方や感じ方を希薄なものにしてしまっているとしたら、少し別の視点で自分や世の中を見ることも必要になるかもしれません。そうしたことは、限りなく本来の普通の女性や普通の男性の姿に近いものなのかもしれないのです。そうやって、自分が普通の女性ないし普通の男性でありえたことがわかったら、とても幸福な人生だったといえることでしょう。
 世俗なものもそうでないものも一つに溶け合う瞬間。
 そのための鳩子のホームページのプランが、〈Hatopia計画その1〉です。
 (2005.5.11〜6.15)

美しき五月(2)

美しき五月

 美しき五月よ
 全ての蕾が、花開くその時
 私の心にも
 恋が花咲くのだ
 美しき五月よ
 小鳥たちが 歌い出すその時
 私も乙女にうち明ける
 私のあこがれと、願いとを
(訳詞・植村敏夫)

ハイネの詩ですけれど、この詩に曲をつけたシューマンの歌曲があるそうです。まだ聴いたことはないのですけれど。

ずっと以前、秋田のK子さんという人が、Queenという雑誌に寄せたメッセージの中に、「美しき五月」という言葉がありました。
私の知っていた「美しき五月」という音楽は、ヨハン・シュトラウスのワルツの曲で、フィルハーモニア・シュランメルンというカフェでの数人による演奏スタイルのものでしたので、K子さんからいただいたお手紙の返事に、そのことを書いた記憶があります。
美しき五月・・・なんとなく気持ちがはずんでくる季節です。

※「美しき五月」は最近は『美しい五月』と言うことが多いらしいので、検索にはご注意を。
http://www12.ocn.ne.jp/~ideale/ontheedge.htm

横顔は

横顔はあまり自信ないけど、このくらいまでのアングルならなんとか・・・

この写真は、ピントがバックの垣根に合っています。人物はボケぎみ。
フィルムのカメラ時代から、コンパクトカメラではそういう悩みがありました。
つまりセルフボタンを押した瞬間に人物なしの背景にピントが合ってしまって
ピンぼけぎみの写真になります。
マニュアル撮影はよくわからないので、
けっきょく、リモコンを買えばいいのかもしれませんね
[YahooBlog"やっぱり鳩子"より]

顔やからだを描かない物語

 秋夜長物語で梅若が最初の夜を迎えたとき、着衣やしぐさのほかに、髪や黛(まゆずみ)についての描写がありました。日本の古い物語では、顔かたちや肉体の描写はあまりしないのが普通ですが、この物語はそれだけで充分まめかしい表現になっています。こういう物語は子どもむけのものではありません。もしかすると、現代のそのての小説と同じように、読む人を興奮させたのかもしれません。

 現代では、普段は着衣の下に隠れている肉体の部分についての細かい描写をする小説があります。通常は見ることのないからだの部分ということです。昔は他人の顔もあまりじろじろ見なかったわけですから、その描写をすることもないわけで、この物語のようにあえて描写するには特別の意図があってのことということになります。といっても黛ていどのことですけれど。

 身につけているものや髪型くらいしか他人を見ないので、その範囲で相手の性別を判断することになります。まあ100%そうでないにしても、古い時代はそういった要素が多かったので、トランスするのも容易であったと想像できます。現代は性差のアピールを誇張することに慣れていますから、トランスする人もハンディが大きくなるのでしょう。

 仏像は、本来は人目に触れさせないものですから、姿かたちをかなり精密に作ったものもあります。仏像の目的はなんとなくわかるような気もします。古い肖像画の中にも精密なものがありますが、何のためにそこまでしたのでしょう。単に大陸文化の影響なのか、よくわかりません。

五月の雨、雨女


出かけようとすると雨。そんなことがよくありました。
それがなぜか人と逢うときによく降るのです。
去年の今ごろも雨。でもそのときは一人でしたけど ^^*

雨女という言葉もありますが、二人で逢うときは、相手の人はそういう話題をあまり好まないようなところがあります。きっと雨は自分の責任じゃないかと思うからなのかも。優しい人なのですね。

男女の違い、父と子と母のテーマ

 著名な芸術家に女性は少ないといいますが、紫式部をはじめとする平安時代の日本の文学に関しては、「例外」という表現を使うべきなのかどうか、よくわかりません。
 けれど、浦島太郎などの昔話を語りついできたのも、アイヌのユーカラを伝えてきたのも、だいたい女性たちです。なぜ女性たちがそのような役割をになったかというと、ユーカラに古い神々が登場する物語が多いことがヒントになると思います。昔話や伝承文学といったものの古い形は、神謡であり、神々が自ら語ったことを特別な女性が聞き取って言葉に発したものだといわれるのですが、そのような古い神や自然の中から言葉を引き出す能力が、女性により多くそなわっていたということなのでしょうが、この話の先はとても難しくなりそうです。ただ、女性だけでなく、トランスジェンダーのような人もそれができたという歴史の例が多いことを付け加えておきます。

 男女は人間的には平等なのですが、性による違いや特質の差があります。その違いについて、肉体的な特徴などから説明するだけでは貧しい気がします。
 女と男のいちばん大きな違いは、母と父との違いのことかもしれません。
 母から見た子は、自らおなかをいためて生んだ子であって、そのように子に愛情を注ぎます。しかし父から見た子は、確実に自分の子であることを証明する方法はなかったのです。父と子の関係は媒介的でもあり、規範上の関係にすぎないようなところがあります。そうやって男は規則や法律を作ったり論理を重視するようになったのかもしれません。

 実の父を疑うというテーマの小説や物語は少なくないと思いますが、日本史上さいしょに父を疑ったのはヤマトタケルという人かもしれませんね。
 むかし石堂丸という少年が父を訪ねて高野山に入って僧の弟子になった話がありますが、その僧は実の父で、戒律のために父であるとは名のらずに生涯師弟関係をつらぬいたそうですが、母と娘ではそういうことはできないかもしれません。

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